じつは紫式部には姉がいた!? 大河ドラマには登場しない家族・友人との悲しい別れ
紫式部が詠んだ歌を1000年以上の時を超えて現代に伝える『紫式部集』。そこには、大河ドラマでは描かれない、紫式部という人物を取り巻く身近な人々とのやり取りも収められている。 『紫式部集』は紫式部が詠んだ歌のベストセレクションであり、ほぼ年代順に並べられた歌群は紫式部の人生をかたどっています。 紫式部自身が晩年に選び成立したとする見方が有力であるように、そこには物語作者らしい、文学的な彫琢(ちょうたく)が施されています。次の贈答歌も小さな歌物語のようなやりとりになっています。あえてここでは詞書も載せておきましょう。 姉なりし人亡くなり、また人の妹失ひたるが、かたみに行き合ひて、亡き代りに、思ひ交はさむといひけり。文の上に、姉君と書き、中の君と書き通はしけるが、をのがじし遠き所へ行き別るるに、よそながら別れ惜しみて、 北へ行く雁の翼に言伝(ことづて)よ雲の上がき書き絶えずして (北へ行く雁の翼に言づけてください。手紙に「中の君」と上書きすることを絶やすことなく) 返しは西の海の人なり。 行きめぐり誰も都へかへる山いつはたと聞くほどの遥けさ (さまざまな国を行き巡って、みんな都へ帰って来るのでしょうか。「かえる山」「いつはた」というあなたの国の名所を聞くと、はるか先のような気がします) このやりとりから、紫式部には姉がいて、その姉が早く亡くなったことが判明します。贈答の相手には妹がいて、その妹が亡くなっていたのです。二人が会った際に、亡き人の身代わりとして、お互いに姉妹を偲ぶためのよるべとしましょう、と約束しました。それ以降、お互いに手紙の宛名に「姉君」「中の君」と書きあって、文通を続けたというのです。 心にぽっかり空いた穴を慰め合ったという可憐なエピソードです。お互いになくてはならない存在であったことがうかがえます。やがて、二人はそれぞれ遠い国に行くことが決まり、別れを惜しむ歌を詠み合いました。 北へ行く雁(かり)を詠んだのは、紫式部自身が北の方角、越前国に赴くことを踏まえています。春には北の国へ帰る雁に託して、越前国まで手紙を寄越してほしいと詠んでいるのです。紫式部は父為時が越前守に任官し、父と同道して越前に下ることになったのは前回、前々回の連載で触れたとおりです。 返歌を寄越したのは、西の海、筑紫(後に置かれた歌から肥前国であることが判明します)に行く人でした。誰もが都へ帰ることが決まっているが、あなたの行かれる場所ゆかりの「かえる山」を思うにつけ、一体いつ(「いつはた」が掛かっている)帰れるのか、心細く感じるのです、と詠んでいます。 この友人もまた親族に従って、地方に下って行ったのです。この友人も、紫式部と同様に、受領階層・中流貴族の娘だったのでしょう。紫式部の行く越前国の地名(「かえる山」「いつはた」)を詠みこんで歌を送ってきた友人は気が利いています。この友人も教養豊かな娘だったのでしょう。 受領層というと、物語や説話ではケチで、がめついキャラクターで書かれることが多いのです。当時、「受領は倒(たお)るる所に土を掴(つか)め」(受領は倒れても、土でも何でもつかんで立ち上がれ、転んでもただでは起きるな)という、受領の強欲さを象徴することばがありました(『今昔物語集』に載る信濃国の国守藤原陳忠(のぶただ)のセリフです)。強烈ですね。 実際には、このような階層の娘達が、培った高い教養の下、宮仕えに出て、歌を詠み、物語や日記などを書く女性として活躍してゆくのです。 なお、この友人は九州の地でそのまま亡くなってしまったようです。そのことを知った紫式部の悲しい歌が『紫式部集』に載っています(参考文献の拙著でも触れています)。 ところで、大河ドラマ『光る君へ』には、この早く亡くなった姉も西国へ行った友人も登場していません。過去の大河ドラマでも主人公の身近な親族など取り上げられなかったり、それなりに人生を左右した人物の扱いが小さかったりすることは、よくあることです。登場人物が多いほど、視聴者の関心は分散してしまい、ドラマのテーマは希薄になってしまうでしょう。 ただドラマとは別に、紫式部の身近にかけがえのない人が姉や友人以外にもいたことは確かです。そのことは知っておいても悪いことではないでしょう。次回からはそうした人たちに少し触れてみます。 <参考文献> 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸