“天皇の家”には宝物がないー「帝室博物館」の様式変遷と日本文化の真髄
東京上野公園にある東京国立博物館。日本最古の博物館と言われています。中でも屋根に特徴がある本館の独特のただずまいは、明治期から本館が建設された昭和初期まで、日本がたどってきた歴史の歩みを感じさせます。 建築家であり、多数の建築と文学に関する著書でも知られる名古屋工業大学名誉教授、若山滋さんが、かつて帝室博物館と呼ばれた東京国立博物館から、日本の文化を考えます。 ----------
帝冠様式とは何か
上野公園の中心は、日本の庭園には珍しく大きな広場で、中央に噴水をもつ池があり、その奥の正面に、東京国立博物館(旧帝室博物館)がゆったりと構えている。 壮大なシンメトリーは、何かしら奥深い威厳を感じさせないではいないが、そこに至るまで距離があるので、動物園や音楽会場や美術館周辺の人混みも、まばらになりがちだ。つまりこの博物館は、大勢の人が訪れるようにではなく、大勢の人が遠くから眺めるように立地設計されているものと思える。 現在の建物は、帝室博物館の時代、1931年に行われた設計競技によって選ばれた渡辺仁の設計になる。 水平に長い鉄骨鉄筋コンクリート二階建てに壮麗な傾斜瓦屋根が被せられ、これは建築界で「帝冠様式」と呼ばれる。軍国主義、国粋主義の機運が高まった1930年代には、このような近代的な技術による建築に、日本風の屋根を載せた様式が多く建てられた。 この設計競技の応募要項には「日本趣味を基調とした東洋式」とあり、前回取り上げた前川國男が、落選覚悟で陸屋根モダニズムの案を提出したのはこのコンペである。 設計者の渡辺は、建築関係者の座談会で「ジャワあたりの民族建築」から屋根のアイディアを得たと語っている。たしかに、両妻が反り上がり、大きい屋根の破風の下から小さい屋根が突き出るのは東南アジアの宗教建築によく見る手法だ。「アジアの盟主」たらんとするこの時代の日本には合っていたのだろう。正面入り口が唐破風ではなく千鳥破風となっているのは、日中戦争に突入した当時の日本趣味ということか。 ところが内部の、正面階段から両側に回り上がるエントランスホール、部屋の中央を突っ切って周遊するかたちの動線は、ベルサイユなどの宮殿の構成を踏襲している。つまりこれは「日本趣味、東洋式、ヨーロッパの宮殿様式」が折衷して建築化されたものと考えていい。 当然のことながら戦後、国粋主義的な匂いのする「帝冠様式」は批判の対象となった。 しかし、建築は時代の思潮を表現するものだ。筆者はあまり好きではないが(思想的なものというより設計者としての感覚)、西洋風からモダニズムへと転換した日本建築史において、この帝冠様式が独自の様式となって、現在の街並に異彩を放っているともいえる。