“天皇の家”には宝物がないー「帝室博物館」の様式変遷と日本文化の真髄
様式の変遷は思想の変遷
今は「トーハク」と略されるこの博物館の呼称は、明治以来「博物館」「帝国博物館」と変化し、長く「帝室博物館」と呼ばれ、戦後「東京国立博物館」に至っている。近代日本の国家思想の転変を感じさせるが、ここでは歴史的に呼び習わされた「帝室博物館」に固執したい。帝室とはつまり「天皇の家」である。 帝室博物館は、まず(博物館の時代)1881年、この欄でも取り上げた日本近代(洋風)建築の父ともいうべきイギリス人建築家ジョサイア・コンドル(日本人を妻として永住した)によって設計された。コンドルらしいインドイスラム風の要素をもつ赤煉瓦の建築である。日本人の目にはもちろん洋風建築であるが、ヨーロッパ人の目には東洋風の趣があり、英国世紀末のロマン主義につながる系譜にある。 やがて1908年、本館の横手に(大正天皇の成婚を記念し)宮内省の建築家片山東熊の設計による、まったくの洋風建築(現表慶館)が建てられる。片山は赤坂の迎賓館の設計者でもあり、ベルサイユやバッキンガムなど、西欧列強の宮殿風建築を設計した。明治政府の要人たちが望んだものは、コンドルの作風よりもむしろこちらであったろう。しかし当のヨーロッパでは、建築はすでにモダニズムの時代に突入していたのであり、その意味で、やや時代遅れの感は免れない。 そして1931年のコンペで選ばれた渡辺仁設計による現在の建築が1937年に竣工している。近代技術による、日本、東洋、西洋を折衷した帝冠様式である。 戦後、東京国立博物館と呼称が変わり、1968年、表慶館の反対側の横手に、谷口吉郎設計による寝殿造の趣をもつモダニズム建築の東洋館が建てられ、1999年、少し奥に吉郎の子息谷口吉生の設計による現代モダニズムというべき法隆寺宝物館が建てられた。 このように、博物館―帝国博物館―帝室博物館―東京国立博物館、という名称と建築の変遷は、まさに、明治から現代に至るまでの、わが国の思想と文化の変遷を物語っているのだ。