ムーミン・シリーズにある「自閉芸術のきわみ」 横道誠がスナフキンの行動に見た“自閉していられることの楽しさ”
不安感から自由になったフィリフヨンカ
つぎの短編「ぞっとする話」は、現実に恐怖イメージを読みとる傾向のあるホムサの物語です。ホムサは「生きたキノコが、もう居間まで来ているのよ」(『仲間たち』p.46)などと脅してくるミイの作り話に怯えます。ミイは語ります。 「あたいのおばあちゃんの体には、一面にあいつが生えてるのよ。おばあちゃんは居間にいるの。というか、おばあちゃんのおもかげがあるものが、ね。大きな緑色のかたまりみたいになっちゃって、口ひげが一方のはしから飛び出てるんだけど。早く、そのラグもまるめて、ドアにおしつけなさいよ。それでなんとかふせげるかもね」(『仲間たち』p.48) 「あの音は、キノコが大きくなるときにたてる音よ。あいつらはぐんぐん大きくなって、しまいにはドアをつきやぶるんだわ。そして、あんたの体をはい上がってくるのよ」(『仲間たち』p.49) 二村さんはこれはレイ・ブラッドベリの「ぼくの地下室へおいで」というSF短編をもとにした作品だと指摘してくれましたが、私もまちがいなくそうだと思っています。 その短編では、主人公にあたる17歳の少女の双子の弟が、雑誌の広告に載っていたキノコ栽培キットを購入します。物語が展開するうちに、宇宙からやってきたキノコによって、人間の肉体が侵略されていることが示されます。胞子が発芽し、キノコになり、それを人間が食べると消化され、血液中に広がって、細胞に入りこみ、その人はキノコに支配されます。キノコ栽培キットを販売しているのは仲間を増やそうとしているキノコ人間です。 トーベのホラー愛好がニューロマイノリティとしての不安感に起因しているのだろうことは先に述べました。かく言う私もホラーが好きで、とくに昭和時代のB級怪奇マンガの収集家なのですが、その私はじつはじぶんが送りだしている本はすべてホラーだと思っているくらいなのです。 じぶんの不安感に形を与えることで生まれる安心感が、ホラー愛好の源です。固有の不安感を他者と共有することで、孤独をやわらげたいという衝動も満たしてくれます。ホラーは不安感に苛まれやすいニューロマイノリティにとって、とても相性の良いジャンルだと私は思うのです。 続く短編「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」で、フィリフヨンカは「天気はあまりにすばらしすぎて、どうにもへんでした。なにかが起こるにちがいありません」と語られるほど不安に苛まれています(『仲間たち』p.57)。隣人のガフサ(鼻だけ異様に突きでている人間型の生きものです)をお茶会に招き、何かに怯える気持ちを共有し、安心したかったものの、ガフサに気持ちは通じませんでした。 このように不安感を伝えようとしても、相手にちっとも伝わらないというディスコミュニケーションも、ニューロマイノリティには常態的な出来事です。 やがて実際に竜巻が「この世のおわり」のような勢いでやってきて、フィリフヨンカの家を完全に破壊してしまいます(『仲間たち』p.85)。彼女は「もうわたし、二度とびくびくしなくていいんだわ。とうとう自由になったのよ。これからは、どんなことだってできるんだわ」(『仲間たち』p.86)と新しい心境を得ます。ムーミン・シリーズ初期からの天変地異による破局というモティーフを日常生活上の心理的不安の問題と融合させたような作品ですね。 一般的に考えると、とんでもない体験によって人付きあいの煩わしさ、不安感、固執などから解放されるという爽快な小話と言えるでしょうが、それだけではなくて、トーベはニューロマイノリティとして感じていた同種の不安感を、コミカルに客観視しようと試みたのかな、と私は推測しています。