ムーミン・シリーズにある「自閉芸術のきわみ」 横道誠がスナフキンの行動に見た“自閉していられることの楽しさ”
スナフキンのとった解決策
つぎの短編「世界でいちばん最後の竜」で、ムーミントロールは絶滅したと思われていた竜を発見します。北欧神話では英雄シグルズによって竜が退治されるというエピソードがありますけれども、この場合の竜はマッチ箱くらいの大きさの、火を吐く小さい生きものです。 ムーミントロールはじぶんの竜を誇らしく思い、スナフキンに見せると、竜はスナフキンを大好きになってしまいます。ミイが「あんたのじゃなくて、スナフキンの竜ね。この竜はスナフキンにしかなついていないもの」と皮肉を言うと、気まずい沈黙が流れます(『仲間たち』p.104)。スナフキンがムーミン屋敷を去ると、竜はそれを悲しげに見送ります。 ムーミンパパは「百科事典で調べてみたがね、最後まで残っていたのが、強い火をはく感情的な種類だったようだ。やつらはとくにがんこで、ぜったいに考え方を変えないらしい」と解説します(『仲間たち』p.106)。 ムーミントロールが悲しくなって竜を解きはなつと、竜は釣りをしているスナフキンのもとにやってきます。スナフキンは(こんなやっかいごとは、モランにぜんぶくれてやる……)とぼやきます(『仲間たち』p.108)。スナフキンはボートで川をくだってきた若いヘムルに眠っている竜を預け、餌になるハエが多くいる遠くの場所で放してほしいと頼みます。 ムーミントロールがやってきて、竜のことを尋ねると、スナフキンはムーミントロールの心中をおもんぱかりながら、「へえ、来てないね」ととぼけます(『仲間たち』p.112)。ムーミントロールは、「いなくなってしまって、ちょうどよかったんだろうな」と心の定めどころを見つけます(『仲間たち』p.112)。スナフキンが「明日、つりはするかい?」と尋ね、ムーミントロールは「もちろんさ。決まってるじゃないの」と答えます(『仲間たち』p.113)。
「男同士の友情に、痺れるような感激がありました」
私は子どもの頃にこの短編が大好きでたまらず、小学6年生のときに最初から最後まで、挿絵も含めて自由帳に筆写し、夏休みの自由研究として担任の先生に提出しました。 竜を捕まえたムーミントロールがスナフキンに会いにいったとき、「ふたりは男の友情で深くむすばれて、しばらくだまってすわっていました」と叙述されます(『仲間たち』p.98)。その男同士の友情に、痺れるような感激がありました。孤独なニューロマイノリティとして、そのような友情に飢えていたからです。 トーベにはアトスとの恋愛のあとに、あるいは恋愛中にも、アトスに対し同性間の友情のようなものを感じる瞬間があったのでしょうね。ニューロマイノリティの人々にセクシャルマイノリティの性質が目立つことをすでに述べましたが、いわゆる「ノンバイナリー」(男女どちらでもない、あるいはどちらでもあるなどの性意識)を自認するニューロマイノリティはとても多いのです。 トーベにもそのような感覚があって、これまでにも述べたようにムーミントロールという男の子のキャラクターにじぶんを仮託していたのではないでしょうか。 ところで、映画の『TOVE/トーベ』には、トーベがヴィヴィカと初めて性行為をしたあと、アトスに「息をのむほど華麗な竜が舞い降りたようだったわ」と語る場面がある、ということを前に書きました。ということは、「世界でいちばん最後の竜」の竜とはヴィヴィカのことだったのではないでしょうか。 その竜がムーミントロールではなくスナフキンを好きになってしまうという物語の内容は、つまるところヴィヴィカとアトスというトーベのふたりの恋人が、トーベ自身を差しおいて惹かれあうようになったらどうしようか、とトーベは不安に思ったことがあって、あるいは睡眠中にそのような悪夢を見たことなどがあって、それがこの短編に結実したということではないかな、という気がします。 おそらく本作は、一般的な読み方をすれば、スナフキンがおとなびた分別によって、親友ムーミンの悲しい気持ちをいたわり、彼を傷つけないように巧みに三角関係を解消した話ということになるでしょうが、私の推理があたっているとするならば、この短編もまた何重もの分身現象を示している「自閉芸術のきわみ」ということになります。
横道誠