なぜ昔の酢飯は甘くなかったのか…老舗「食酢醸造」会社代表が明かす、寿司屋に大打撃を与えた「事件」と、世界が認めた「赤酢復活」の背景
第1回【稀代の美食家「北大路魯山人」が食べていた“酢飯”は砂糖ゼロだった…江戸前寿司の元祖「華屋与兵衛」が“赤酢”にこだわった理由】からの続き──。黄変米(おうへんまい)事件と言われても、ご存知ない方が大半だろう。戦後間もない日本は食糧難のため外国から米を輸入していた。(全2回の第2回) 【写真】女性寿司職人のパイオニア、「なでしこ寿司」店長が語る「むしろ女性がいいんです!」 ***
そして1951(昭和26)年にミャンマーから輸入された米6700トンを検査すると、黄変米だと判明した。 黄変米とは人体に有害な毒素を持つカビが米に発生し、黄色や橙色に変質したものだ。肝臓や腎臓に障害を引きおこす可能性が高く、厄介なことに炊飯のために加熱しても毒性は残ってしまう。 1952(昭和27)年1月、ミャンマーからの米6700トンのうち約3分の1が黄変米であることが横浜検疫所の調査で判明。当時の厚生省は「黄変米が1%以上混入している輸入米は配給に回さない」ことを決定したが、その後も続々と黄変米が発見され、処分に困ってしまう。 そこで厚生省は、なんと「黄変米の危険性は科学的に立証されていない」と虚偽の理由をでっち上げ、混入量1%を3%に緩和することを決める。この問題だらけの決定を1954(昭和29)年7月に朝日新聞がスクープすると、政府に批判が殺到する。ところが配給は強行されてしまう。 今となっては呆れるばかりの事件だが、これが握り寿司や酢飯と何の関係があるのか、まずは酢飯の歴史を振り返ってみよう。 注目ポイントは赤酢だ。千葉県鎌ケ谷市にある私市(きさいち)醸造は高品質の赤酢を生産しており、数々の高級寿司店が全幅の信頼を寄せている。
赤酢と塩だけの酢飯
代表取締役の私市一康氏は、江戸時代に握り寿司を考案したとされる華屋与兵衛(1799~1858)が赤酢と出会ったことが、寿司の歴史で重要なポイントだと言う。 「江戸時代、米は貴重品でした。そして貴重な米を使って醸造する酢は、それ以上の貴重品だったのです。ところが19世紀初頭に今の愛知県で、酒造家の中野又左衛門(1756~1828)が酒粕を使って赤酢を醸造することに成功しました。酒粕は日本酒を搾り取った後に生まれる残り物ですから、原材料のコストが非常に安い。しかも酒粕はデンプンとタンパク質が豊富で、酢を醸造する過程でデンプンは糖に、タンパク質はアミノ酸に変わります。その糖とアミノ酸が長期熟成中にメイラード反応が起こり褐変化します。その後のアルコール発酵、酢酸発酵を経てコクが豊富な赤酢ができます。ここに『甘味とうま味が豊富で、おまけに安価』という商品価値の非常に高い酢が誕生したのです」 甘味とうま味が口の中でバランス良く混ざりあうと、人は「美味しい!」と感じる。しかも赤酢は米酢より圧倒的に仕入れ値が安い。 これに目を付けた華屋与兵衛は赤酢を使って酢飯を作った。つまり江戸時代の酢飯は赤酢と塩しか使われていなかった。赤酢の甘味とうま味だけで充分に美味しかったのだ。