麻布中高「主体性を試す授業」の原点、55年前の「授業改革運動」とは何だった?
麻布中学校・高校(東京都港区)は中学受験をする小学生や保護者、教育関係者の間で「不思議な学校」として有名です。とはいえ、どう不思議なのかその実態はそれほど知られていません。元々独自の校風を持っていた同校がさらに風変わりな方向へ舵(かじ)を切るきっかけになった原点が1969年に起きた授業改革運動。5月にその記録をまとめた『よみがえれ! 授業改革運動』を出版した著者で、ともに71年麻布高卒の赤澤周平さんと三浦徹さんに話を聞きました。
【話を聞いた人】ビジネス・コンサルティング会社エム・ディ・アイ ラボラトリ常務取締役、東洋学園大学現代経営学部兼任講師 赤澤周平さん
(あかざわ・しゅうへい) 1952年生まれ、国際基督教大学教養学部卒
消されてしまった生徒と教員の合意
――55年前の出来事をなぜ今になって出版されたのでしょうか。 赤澤 私たちが高2だった1970年3月、5カ月にわたる討議を経て開かれた全校集会で、生徒と教師が合意した授業などの改革案がまとまりました。ところが、3月末の理事会で校長が健康上の理由で辞任。4月に理事会が選んだ校長代行が合意を一方的に破棄し、従わない生徒は処分すると宣言しました。その「沈静期」が1年半続きました。 私たちが卒業したあと71年10月の文化祭に、ヘルメットをかぶり、竹ざおを持った生徒が突入し、全校集会開催を要求。警官隊が導入され、学校がロックアウトされるのですが、それにたまりかねた生徒、教員、保護者らが声を上げました。11月に全校集会が開かれ、生徒が代行の退陣を要求し、代行が受け入れました。 三浦 退陣を勝ち取ったからといって万々歳ではありません。私たちとしてはこの改革案は消されてしまった合意なんです。1年下の学年が「代行はいなくなったけど、授業は変わってない。この2年間は何だったのか」という問いを発しました。それをキチンと確かめよう、資料を元に記録をつくり、みんなで考えようということになりました。 私たちの学年(71年卒)が授業改革運動。一つ下の学年(72年卒)がその後の沈黙の1年半。突撃事件が起きてから代行退陣までをさらにその下の学年である当時の高2(73年卒)と、三つの学年の有志がそれぞれ分担することになりました。まず、ビラを集め、日録をつくることから始めました。 赤澤 代行が登場してから突撃隊が出るまでの沈黙の1年半は「幕間(まくあい)のパントマイム」というタイトルで85年に出版されました(今年4月に増補・復刻)。代行退陣の部分は95年に学園の「100年史」が出て、そこに資料を全部提供して載っています。我々が最も遅れていたんです。 三浦 当初は1年ぐらいで出すつもりだったんです。週1回集まってビラを読んで起きた出来事の復元に2年ぐらいかけ、その後80年ごろには第1稿ができたんですが、仕事や家族の都合で中断してしまいました。仕事に余裕ができ、2017年、運動開始から50年目に刊行することを目指し、再開しました。55年前にできなかった宿題を終えたことになります。 ――「スター・ウォーズ」でエピソード1の方が後から出たようなことですね。 赤澤 40年前は、読み手について、改革運動の時期に同じ空間と時間を過ごした生徒や教師を想定していました。しかし、私たち自身が職場や地域活動などでたくさんの人に接する経験を経た今、学校や教育の普遍的な問題に通じると考えるようになりました。授業や学校における生徒、教師の関係とそれぞれの主体性を問いかけたところにこの運動の今日的意味があると考えます。 改革運動は、1969年11月、高校生徒会の執行機関に当たる執行委員会がつくった「テスト制度を告発する!!」という立て看板とビラから始まりました。三浦さんはその立て看とビラをつくる側にいました。私はそれを聞く側にいました。 通常だと立て看を立ててビラを配るだけで終わっていたんですが、その時の大きな違いは彼らがそれを題材にしてクラスタイムで話そうという動きをしたんです。それが一方通行の動きで終わらなかった理由だと思います。クラスタイムは授業の一環で毎週金曜の6限にありました。他校で言うとホームルームです。金曜の最後の1コマなので早く終わらせて帰りたいという生徒もいれば、乗ってくる生徒もいました。 三浦 1年前に執行委員会の中に授業や試験の問題を扱う授業対策委員会が設置され、私は69年10月からメンバーに加わりました。 赤澤 私は執行委員会の中で、予算委員長をしていましたが、授業対策委員会の動きは全然知りませんでした。ビラで初めて知り、のちに改革の動きに関わることもありました。