青い芝の魔力を追って
変わったこと、変わらないこと
彼らと知り合ってから、また取材を始めてからも障害者を取り巻く情況は随分と変わった。 数十年前まで、ほとんど街で見かけることがなかった障害者は、今や珍しくなくなった。都会の公共施設・交通機関には、エスカレーターやエレベーターが設置されるようになった。車イスで入れる飲食店も増えた。有料ヘルパー制度が発足し、以前に比べれば容易に自立できるようになった。 90年代半ば以降、神戸の障害者には、中国・内モンゴルからの留学生が介護に入るようになり、今もそれは続いている。海と陸の向こうの人が介護に入ることは、数十年前には考えられないことだった。 兵庫青い芝で活動していた自立障害者は、かつては隣や階上の声や物音がまる聞こえのボロアパートに住んでいたが、今は風呂付きの清潔でゆったりとした公営住宅の住人となっている。 数年前、福永の家の居間で「ここでタバコを吸うな!肺ガンで殺す気か!」という貼り紙を見つけた。福永も私も喫煙者ではないが、少なくない介護者は愛煙家である。何十年も近くで紫煙を吸い込み続けている福永に「もう遅いで!」と言いたかったが、このような警告を発するのも時代が変わったからであろう。 このような様々な変化は、喜ぶべきことである。しかしどれだけ介護がシステム化され、科学技術が進歩しようが、変わらないのが障害者と健全者が関係を築くことの難しさであり、多くの人の意識に沈澱し続ける優生思想である。 本書では、主に兵庫青い芝の運動を通してそれらに迫ったつもりである。取材と執筆をし終えてあらためて感じるのは、そのような小難しい話ではなく、各メンバーの存在感である。あてにできる制度がない時代に、重度の障害者が周囲を巻き込んで生活すること自体が、彼らの運動であったように思う。 しかし、福永がもし障害を持って生まれていなくても、あるいは澤田が子供の頃に日本脳炎にかからなかったとしても、彼らは周囲に何らかの影響を与える異人になっていたのではないかと思わないでもない。それだけの魔力を彼らは持っているのである。
角岡 伸彦