紫式部の遠距離恋愛のお相手は誰? 求愛を一蹴した痛烈な和歌とは
紫式部自身が自身の歌を集めて作成した家集『紫式部集』には、数多くの和歌のやりとりが書き残されている。その中には、もちろん「恋の歌」も記されており、少女時代の紫式部の恋愛模様が垣間見える。 紫式部自身が自身の歌を集めて作成した家集『紫式部集』には、数多くの和歌のやりとりが書き残されている。その中には、もちろん「恋の歌」も記されており、少女時代の紫式部の恋愛模様が垣間見える。 前回は『紫式部集』から、越前への旅の途中で詠んだ、「上から目線の歌」をとり上げました。今回も同じ家集から、越前に滞在していたころの紫式部の歌を紹介しましょう。 春なれど白嶺(しらね)の深雪(みゆき)いや積もり解くべき程のいつとなきかな (春ではありますが、こちらの白山の深い雪にさらに雪が積もり、いつ解けるかもわかりかねます) この歌が詠まれた状況は詞書に拠ると、次のとおりです。紫式部が越前に下向した翌年、長徳3年(997)のことです。「唐人見にゆかむ(唐人を見に行こうと思っていますよ)」、と紫式部へ手紙で言ってきた人がいました。 唐人とは、若狭国に漂着していた宋の人七十余人のことで、2年前に越前国に移されていました。父為時はこの宋人たちと漢詩を交わしていました。その漢詩は『本朝麗藻』という漢詩集に載り、今もその内容を知ることができます。同じ東アジアの漢字文化圏なので、文字(漢字)を通してコミュニケーションができたのです。その人は、為時と宋人達との関係を知っていて、このようなことを言ってきたのでしょう。 そして、その人は重ねて「春は解くるものと、いかで知らせたてまつらん(春は解けるものだと何とかあなたにお知らせ申し上げたい)」と言ってきたのです。解けるというのは、春になって雪が解けるという意と、あなたの頑なな心が解けるという意が掛けられています。そこから唐人を見にいくと言っていた人は、紫式部に求愛していた男性であることがうかがえます。唐人を見にいくというのも越前にいる紫式部に会いに行くための口実だったのかもしれません。おそらく越前に下る前から、この男性は紫式部に言い寄っていたのでしょう。紫式部は求愛を受け入れるのにためらいがあり、越前へ下ったのです。実際にこの男性が越前へ唐人を見にきたかどうかはわかりません。 それに対する紫式部の歌は、かなり強気なものです。越の国を代表する白山の、積もり積もった深い雪は春になっても解けることはないと言い、絶対に心を許さないという意志が表明されています。男性の求愛に対して、女性側が冷たくはねつけるのは、この時代の和歌のお約束ですが、これを受け取った、男の困り顔が見えてきそうです。 この男性は後に夫となる藤原宣孝とするのが定説となっています。藤原宣孝は父為時の従兄弟の息子という縁戚関係にあり、また花山朝で蔵人を勤めていて、為時の同僚でもありました。 宣孝の年齢もはっきりしませんが、紫式部より二十歳くらい年長であったようです。そのころ、四十代中盤であった宣孝はすでに妻も子もあり、長男の隆光は紫式部と歳が変わらないくらいでした。宣孝の求愛を受け入れないまま、越前に下ったのは、この歳の差と、宣孝には正妻(嫡妻)がいて、序列で言えば第二夫人以下(妾妻)に甘んじることも理由であったかもしれません。 しかし、越前まで、宣孝は変わらず熱心に文を送ってきました。その情熱にほだされるように、紫式部の宣孝への思いは変わってきたのでしょう。宣孝の求愛を受け入れる決意をして、長徳四年の春には、父為時に先駆けて、京へ戻ったと思われます。およそ一年余の越前滞在でありました。 ところで、大河ドラマでは父為時の家にしょっちゅうやってくる、年上のおじさんといった形で宣孝は描かれています。為時との縁戚関係や職場関係から言って、この描き方は事実かどうか不明にしても、なるほど、巧みな設定だと思わされます。今のところ、紫式部(まひろ)にとって宣孝はまったく恋愛対象ではなさそうですし、宣孝のほうも同じように見えます。この二人がどの時点から恋愛関係、男女の関係に変わっていくのか、ドラマのみどころの一つではないでしょうか。 <参考文献> 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸