炭坑の分散投資でリスク回避、コンプライアンス経営の先駆け 麻生太吉(中)
18世紀に英国で始まった産業革命以降、日本でも石炭は産業の発展には欠かせない資源でした。明治後期は、九州を中心に炭脈を見つけるために、投資家たちは躍起になりました。しかし、石炭の採掘には事故はつきもので、たったひとつの炭鉱だけでは経営にも危険が伴いました。当時、炭鉱経営において、分散投資の考えを実践していたのは麻生太吉でした。市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
「唯一の坑区に頼るのは危険」分散投資でリスクをヘッジ
麻生太吉がやっと掘り当てた新鉱脈、鯰田坑を尻目に忠隈坑に移ったわけが分かるのは5年後のことだ。笠松坑が出水で災害を受けた時、麻生は笠松坑を放棄し、連隊をつれて取っておきの忠隈坑に移ったのである。この時、皆は太吉の真意を知るのだった。 「太吉によれば、炭坑業に身を入れる限り、唯一の坑区に頼るのは危険である。火難、水害、その他不慮の災厄がいつ襲いかかるかも知れない。その時、事業の生命をいかに保つか、麾下の坑夫たちの働き場をどう確保するか。1つが倒れても1つが残るように用意は欠かせない。だからこそ鯰田が着炭して安心できることとなったと同時に、第2の仕事場として忠隈の建設にかかったのである」(『麻生太吉伝』大田黒重五郎監修) 炭鉱経営者は激しい炭価の高騰落のリスクにさらされると同時にもう1つのリスク、火災、出水等の事故発生の危険と隣り合わせにあるのだ。太吉は分散投資によるリスクのヘッジを実践する。 果たして1891(明治24)年、笠松坑の採掘中に大洪水に見舞われ、地盤の低い笠松坑は放棄のほかはなかった。もし忠隈坑の用意がなかったら太吉は致命傷を負っていたに違いない。太吉の分散投資で危機を免れた麻生商店は快進撃態勢に入る。
産業革命の進展で石炭の需要が急増
石炭のことを「黒いダイヤ」と呼ぶのは1887(明治20)年代のころのようである。石炭の需要は産業革命の進展、蒸気機関車の発達とともに急増し始める。工場、船舶、鉄道……と産業界から引っ張りダコの半面、供給も激増してくる。