炭坑の分散投資でリスク回避、コンプライアンス経営の先駆け 麻生太吉(中)
表1をみると、鉄道用を中心に需要の伸びが著しいが、表2をみると、増産のスピードがそれを上回る速さであることが分かる。三井、三菱、住友、藤田など大財閥が一斉に筑豊炭田に資本を投下するようになる。また、各地の野望家が先祖伝来の田畑を売り払って炭坑に乗り替える動きも目立つ。当然生じる需給ギャップは炭価を押し下げる。麻生商店の懐具合も売り上げが伸びても収益がそれに伴わない状況に陥る。 そうした折、太吉は巨利を占める。1889(明治22)年、鯰田坑を10万5000円で三菱に売り渡したのである。その金で新しい坑区を買い漁る。太吉の年譜をみると、この時期はまさに「漁る」という表現がぴったりくる、手当たり次第に買いまくった。すべての坑区が良質とは限らない。「当たるも八卦」の気概だったかも知れない。
日銀の資本金が1000万円時代、10万5000円は大金である。いまの価値に直すと50億円近いはずである。この時の金を受け取りに行ったのは太吉の参謀役、瓜生長右衛門である。瓜生長右衛門の思い出話が面白い。小切手、為替もない時代のことだ。門司の三菱の店で半額を受け取ることになっていた。 「1円札で5万両渡されました。汽車はなく、門司から飯塚までテクテク歩いて戻らねばならぬ。大きな風呂敷を持って行きました。小料理屋で昼飯を食った。主人が荷物を見て何を買うてきたか、という。イヤ現金じゃ、5万両ですばいといったら、ぜひ見たいと言い出した。わしは店の板の間に座って前に5万両を積み上げた。主人は近所の人を大勢呼んでくる。ありがたい、ありがたいといって拝んだ人もありましたよ」
麻生から買った忠隈坑を住友が名坑に
三菱から得た大金を投じて買い付けた坑区が新たな利益を生む。1894(明治27)年には忠隈坑を住友に売り、1970(同40)年には本洞坑で三井から空前の100万円を手中に収めた。 住友が忠隈坑を買いたいと言い出したとき、太吉の周辺には渡りに舟、売ってしまえという意見が大勢を占めた。それというのが、大きな断層が見つかりこれ以上掘り進めない状態になっていたからだ。太吉は言った。 「よし売ろう。その代わり断層のことも何もかも相手にみせて、そのうえで売る」 太吉の言葉にあっけに取られた人もいたが、太吉は住友側にありのままを告げ、自ら先導して坑内を隈なく案内した。それでも住友の購入意欲は変わらなかった。住友は巨費を投じて山の生命を復活させ忠隈坑は住友屈指の名坑として住友の事業を支えた。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>