羽虫を千枚通しで…上皇陛下が皇太子時代に抱えていた孤独と苛立ち
● 皇太子妃候補と目された 旧皇族令嬢の顔写真を掲載 そんな明仁皇太子の精神的煩悶をよそに、1951年7月29日の朝日、読売新聞は宮内庁が内々に皇太子の結婚準備を進めているという記事を掲載した。お妃報道の嚆矢だった。 朝日新聞は、皇太子は今年18歳の成年であり、「大正天皇、今上陛下の御結婚当時を先例とし候補者の内調査を非公式に行っているものである」と書いた。大正天皇は12歳ごろからお妃探しが始まり、20歳で結婚。父・裕仁天皇は17歳で婚約が内定し、22歳で結婚している。 そして、将来の日本国の象徴となる天皇の皇后としてふさわしい女性であることが条件だとして、北白川家、久邇家など元皇族11家から選考が始められているとしている。次に五摂家などの旧華族、徳川家、元公爵家などの順で選ばれるであろうと推測。 「非公式のお見合いの形をとられるはずで、さらに皇太子さまの恋愛の場合も考慮されるなど、人間皇太子の御意思を十分に尊重する」という。「人間皇太子」といいながらも恋愛はイレギュラーとされており、お妃候補も元皇族・華族しか想定されていない。これが当時の一般的な意識だった。 読売新聞は同日夕刊で候補として元皇族の令嬢6人の実名を報じた。伏見章子、久邇通子・英子・典子の姉妹、朝香富久子、北白川肇子である。久邇家の姉妹と伏見章子は写真まで大きく掲載された。記者が各家庭を突撃取材した様子も書かれていた。 プライバシーへの意識が薄い時代とはいえ、やり過ぎの感がある。皆未成年で、久邇典子、朝香富久子はまだ9歳だった。 しかし、これは「皇太子妃は元皇族もしくは華族から選ばれる」という先例をもとにした推測記事に過ぎず、この時点で宮内庁が6人をリストアップしていたわけではない。お妃報道はこの記事でパンドラの箱が開いた。以後7年近くにわたって“過剰報道”が繰り返されるのだが、皇太子妃は元皇族か華族という先入観が払拭されることはなかった。 この「先入観」には根拠があった。記事が出る前に取材を受けた田島は「平民の子は才色兼備でもどうかと思ふ。矢張り貴族階級に限られる。少なくもそこから(皇太子妃選考は)始められる(*7)」と話していたのだ。記者たちはこの感触をもって取材にあたっていた。 *7 『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録2 拝謁記2 昭和25年10月~26年10月』(岩波書店、2022年)171頁
井上 亮