通算420試合登板の鍵谷陽平は「引退します」と即決 セレモニーを一度は拒否したワケとは
── 自分のボールが投げられないから、投げたくないというのもありましたか? 鍵谷 いえ。チームに迷惑をかけたくないというのが大きかったです。最後までちゃんと投げていたので、パフォーマンスが出せないというのはなかったです。 【新しい自分を目指したが...】 ── 少し話は戻りますが、2024年2月のキャンプの時に国頭(くにがみ)で話を聞いた時に「久しぶりに五体満足でやれています」と言っていました。不安があった足も大丈夫だし、肩・ヒジも問題ないと。それでもなかなか支配下登録になるという声も聞かなくて、こちらもモヤモヤしていました。 鍵谷 入ってみて、あらためてファイターズの変わらないところというか、一定の物差しがあるのを感じました。真っすぐが速くて空振りの取れる変化球がある。いわゆる三振を取れるピッチャーが一軍に必要とされているんです。僕はまったく違うタイプで、どちらかというと真っすぐも速くないし、空振りが取れる変化球もないけど、ランナーを出しながらもゼロで抑えて帰ってくるというスタイルになっていたので、球団がほしいピッチャー像とは違うよなと。しかも育成からのスタートだったので、登板機会も少なかったですし、調整も難しかったですね。 ── ウエイトをかなりやって、真っすぐにもう一回磨きをかける、ブラッシュアップするという強い意志を感じました。新しい鍵谷陽平が生まれるんじゃないかとワクワクしていたのですが......。 鍵谷 まずファイターズのほしいピッチャーというのが、僕が目指しているところと合致していたので、新しい自分をつくろうと思ってやっていました。フォークと真っすぐをしっかり投げるという目標を立ててキャンプに入り、フォークの研究というか、どうすればより落ちるのか、いいフォークが投げられるのかということを、コーチたちと相談して練習しました。 と同時に、150キロ以上の真っすぐをコンスタントに投げられるというところにフォーカスして、練習に取り組みました。そのためには出力を上げないといけないですから、ウエイトをガンガンやりました。でも、やっぱりケガをしてからは、なかなか戻ってこないという感覚はありましたね。 ── 体はひと回り大きくなりましたよね。 鍵谷 そうですね。本当に異常なセット数を組んで、ガッと体を変えたんです。でも、やっぱり試合になると、支配下に上がるためには0点に抑えなきゃいけないので、そことの兼ね合いで、せめぎ合いながらちょっとずつ上がってはいたんですけど......難しかったですね。 ── 2週間に1回くらいの登板だとなかなか......。 鍵谷 僕らは空いたところにスポットで投げていかなきゃいけないので、しょうがないことだったんですけど、なかなか試合でスピードを出すということができなかったですね。 ── 2024年シーズンはファームで20試合23イニング、防御率0.78でした。球団から戦力外通告を受けて奥さん(女優で料理研究家としても活躍中の青谷優衣)には、すぐに伝えましたか? 鍵谷 いえ、すぐには伝えませんでした。北海道で(戦力外を)言われたというのもあって、電話だときついだろうなと思ったので、東京に戻ってから直接伝えました。でも、去年ジャイアンツをクビになり、ファイターズに育成で戻った時点で「今年で辞める可能性はかなり高いから、それは覚悟して過ごそうね」と、ちゃんと話し合っていたので、ショックを受けるとかはなくて「わかりました」という感じでした。 つづく>> 鍵谷陽平(かぎや・ようへい)/1990年9月23日、北海道亀田郡七飯町出身。北海高から中央大に進み、2012年ドラフト3位で日本ハムに入団。1年目から38試合に登板するなど、おもにリリーフとして活躍。17年にはシーズン60試合に登板した。19年シーズン途中から巨人に移籍。23年オフに戦力外通告を受けるも、古巣である日本ハムと育成契約を交わす。24年7月に支配下になるも一軍登板の機会がなく、9月に現役引退を発表。25年から日本ハムのチームスタッフとして活動する。妻は女優の青谷優衣
市川光治(光スタジオ)●取材・文 text by Ichikawa Mitsuharu(Hikaru Studio)