皇室と軽井沢「戦争を忘れない」繰り返し“開拓地”を訪れる理由とは【皇室a Moment】
開拓地には、昭和天皇訪問の記念碑が建ち、詠んだ歌が刻まれています。 「浅間おろし つよき麓にかへりきて いそしむ田人 たふとくもあるか」 「田人(たひと)」とは、農家の人たちのことです。旧満州から引き揚げ、“浅間おろし”が吹く地に入植して農業に励む人たちに心を動かされたのだと思います。
■ 旧満州から苦労して引き揚げ入植した人たちの開拓地
――立派な記念碑からも、大日向の人たちが昭和天皇の訪問や歌を励みにしてきたことが伝わりますね。旧満州に移住したということですが、改めてその経緯をうかがえますか? 1932(昭和7)年に、日本は「満州国」の建国を宣言し、国策として多くの移民を送ります。「満蒙開拓団」などと呼ばれる人たちです。その数およそ27万人。みな日本での生活が苦しく、満州に夢を託したんです。しかし旧ソ連の参戦、敗戦の混乱、飢餓や病気などでおよそ8万人、3人に1人が命を落とし、生き残った人も命からがら帰国しました。 ――3人にひとりというと、どれほど過酷な環境だったかと思いますし、希望を胸に向かった先で、そういった生活が待っていたというのは、想像してもし切れないほどのつらさや、苦しみ、悔しさもあったんじゃないかと思います。
こちらは上皇ご夫妻が開拓記念館を訪問された時の映像ですが、「大日向開拓地」を作ったのも、こうした満州に渡った人々でした。 戦前、長野県に同じ名前の「大日向」という村があり、苦しい村の財政を打開しようと満州に“村を分ける計画”が持ち上がり、764人が満州へ渡って「満州大日向村」をつくりました。しかし敗戦後、帰ってくることができたのは半数以下の310人でした。故郷に再び戻ることも出来ず、入植したのが浅間山麓の標高1100メートルの高地です。今ではキャベツやレタスの栽培で知られますが、当初はろくな住まいや食べ物、農機具がない中、冷害と闘いながら生きてきたんですね。
■軽井沢は上皇ご夫妻がテニスコートで出会った地
――上皇さまと軽井沢のご縁は、いつごろ始まったのでしょう? こちらは1955(昭和30)年の映像です。この夏、昭和天皇は、香淳皇后、当時21歳の上皇さまと3人で軽井沢に滞在しました。この時も昭和天皇は歌を詠んでいます。 「ゆふすげの 花ながめつつ 楽しくも 親子語らふ 高原の宿」 “楽しくも語らふ”というところに親子水入らずで過ごした喜びが伝わってきます。上皇さまが親元から離されたのは3歳ですから、昭和天皇と香淳皇后にとっては成長した息子とのうれしい旅だったと思います。 上皇さまの初めての軽井沢訪問は、その6年前の1949(昭和24)年、当時、英語の家庭教師だったバイニング夫人を避暑先に訪ねられた時にさかのぼります。以後、毎夏のように軽井沢に滞在されました。また、上皇后さまにとっても、軽井沢は戦時中に半年ほど疎開した地でした。 ――その上皇后さまと出会われるのも軽井沢だったんですね。