「建国記念の日」が「2月11日」である理由を知ってますか…日本人が意外と知らない「驚きの真実」
神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか? 【写真】「建国記念の日」が「2月11日」である理由…日本人が意外と知らない真実 右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。 歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
「健康記念の日」の起源
紀年法の採用でも、同じように神武天皇マジックが使われた。 日本ではそれまで、元号で年を把握していた。ただ、元号は代替わりや大きな事件などのたびに変わり、時系列での把握がむずかしかった。安政3年、慶応元年といわれても、安政のほうが慶応より早いと知っておかなければ前後がわからないし、また両者の間にどれくらい間隔が開いているかは別に計算しなければならない。 その点、西洋ではキリストの誕生年を紀元としているため(西暦)、全体像をつかみやすい。第1回十字軍は1096年、東ローマ帝国の滅亡は1453年、フランス革命の発生は1789年という具合だ。 そのため、日本でも独自の紀年法が必要ではないかという議論が起こった。とはいえ、西暦をそのまま採用するのははばかられる。 そこで考えられたのが、神武天皇の即位した年を紀元とする、神武天皇即位紀元(神武紀元、皇紀)の創設だった。 これなら便利だし、日本人としてのプライドも保ちやすい。ただ、問題もあった。神武天皇の即位日は『日本書紀』に「辛酉年(かのとのとりのとし)の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ)」と書かれているばかりで、具体的にいつなのかよくわかっていなかった。 そこで1872(明治5)年、太陽暦の採用を機に算定が行われたが、なにぶん古いテキストなので紆余曲折があった。紀元はいったん紀元前660年の1月29日に定められたものの、1873(明治6)年、あらためて同年の2月11日に定められた。今日の「建国記念の日」(戦前は紀元節)の起源である。