【新説戦国史】関ヶ原の合戦は野戦ではなく攻城戦だった!? 最新研究によって判明した謎の城の役割とは?
豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部の政争に端を発して繰り広げられた関ヶ原の合戦。東西が激しく衝突した野戦というのが定説だが、最新研究によって新説が唱えられている。西軍の切り札だった豊臣秀頼を迎えるための城があった可能性が浮上したのだ。ここではその新説に関して解説する。 従来説:関ヶ原の合戦は両軍がぶつかった野戦 新説:西軍には秀頼を迎えるための秘密の城があった? ■関ヶ原の合戦は野戦ではなく攻城戦だったのか? 通説によれば、関ヶ原の戦い前夜、大垣城を出立した石田三成は関ヶ原へと転進し、笹尾山に本陣をおいたとされている。そして、この笹尾山で東軍を迎え撃ち、西軍が総崩れになってからは、北側に位置する伊吹山(いぶきやま)方面に逃亡を図ったのだった。 これに対し、新説として注目されているのが、玉城(たまじょう)の存在である。玉城は関ヶ原の西方、ちょうど美濃と近江の国境に位置している。航空機によるレーザー測量の結果、複数の曲輪(くるわ)群が構築されていることが明らかとなった。こうした点から、石田三成はこの玉城に本陣をおいていたのではないかとする説や、豊臣秀頼を招くつもりだったのではないかとする説も唱えられるにいたった。これらの新説によれば、西軍は玉城を中心に、松尾山城および菩提山城(ぼだいさんじょう)とも連携して関ヶ原一帯を制圧するつもりであったとされる。 以上のような考古学の成果とともに、歴史学の点からも、新説が補完された。合戦直後に徳川家康が伊達政宗に送った書状には「濃州山中に於いて一戦に及び」(「伊達家文書」)とある。文中の「山中」を山中村(やまなかむら)という固有名詞と解釈した場合、山中村を眼下に見下ろす玉城を東軍が攻めたのではないかと考えられるようになったのである。そこから、関ヶ原の戦いは、野戦ではなく攻城戦だった可能性についても指摘されるようになっている。 しかしながら、「濃州山中」という文言は、「美濃の山の中」という意味でしかない。文献から、山中村が主戦場であったと断定することは困難である。 そもそも、玉城は美濃・近江国境に位置する「境目の城」であり、関ヶ原の戦いに際して構築されたわけではない。西軍の一部が守備していた可能性は否定できないものの、実際に関ヶ原の戦いに利用されたか否かを、まずは遺構として確認する必要がある。発掘調査によって関ヶ原の戦い当時の遺物でも出土しない限り、玉城をめぐる攻防が実際にあったと断定することはできないだろう。 監修・文/小和田泰経 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部