多摩モノレール箱根ケ崎延伸区間、幻の武州鉄道と似たルートだった
ちなみに、鳥居観音は山全体を境内とする壮大な寺院であり、実際に訪れてみると、その規模に圧倒される。麓(といっても標高は高い)の登山口から、車で5分、徒歩で40分の山頂(海抜500m)付近にいくつかの塔が立ち、本尊の白衣の救世大観音像(像高23m)が、緑の木々に包まれるようにして屹立している。このような大仏をどうやって山中に建てたのか不思議に思ったが、境内の案内板に次のような説明があった。 「アトリエで六分の一の原型を作り、拡大して原寸大の輪切りの塑像(そぞう=粘土などを材質とする像)を作製し、その雌型をヘリコプターで吊り上げ現地に組み建て、人工骨材を配し軽量コンクリートを流し込んで建築したものである」 平沼はこれほどの大事業を私財を投じて進めていたのだから、滝嶋の鉄道建設の提案に心を動かされたというのは理解できる。後に平沼も、滝嶋に対する債権回収をめぐり、特別背任罪容疑で起訴されることとなったが、結局、無罪になった。 ■「武鉄の計画はズサン」事業として成立する可能性はあったのか 鳥居観音から先は、本当に何もない山道へと分け入り、次第に「ポツンと集落」や「ポツンと一軒家」すらもなくなっていく。九十九折りのカーブが連続するあたりは、さすがにトンネルにするつもりだったのだろうが、とにかく険しい深山を行く。 当時、西武秩父線の免許を申請し、競願関係にあった西武鉄道は、「武鉄の計画はズサンであり、山間部の多い計画路線を、50億円ほどの金で実現できるはずがない」(『戦後政治裁判史録3』田中二郎ほか)と武州鉄道計画を批判していた。ライバルを牽制する運動とも取れるが、現地を見れば納得である。
横瀬町に入り、国道299号に合流する。芦ヶ久保駅のあたりまで来ると、ようやく人里となるが、これでは沿線住民の利用はほとんど見込めないだろう。吉祥寺~東青梅間は別として、東青梅~御花畑間は資源開発(貨物)や観光路線としての需要を見込んでいたのだろうが、はたして事業として成立する可能性はあったのだろうか。 参考になるのが、1969(昭和44)年10月に開業した西武秩父線(吾野~西武秩父間)の収支である。2013(平成25)年、西武ホールディングスが米国の投資会社「サーベラス」からTOB(敵対的な株式公開買付け)を仕掛けられた際、西武秩父線などを「不採算路線」として廃止するよう求められたのは記憶に新しい。西武秩父線も、少なくとも近年まで、そのような収支状況だったのだ。旧・名栗村付近の山岳地帯は収益性が低い割に維持費がかかることなどからすれば、武州鉄道という弱小資本が路線を維持するのは無理だったと思われる。