多摩モノレール箱根ケ崎延伸区間、幻の武州鉄道と似たルートだった
「(武州鉄道は)実は、モノレールでやる計画であったんです。はっきりとは覚えていないが、施行認可申請の施行方法変更でモノレールにすることになり、僕は、夏の暑い盛りに1週間カン詰めで吉祥寺の武州鉄道の事務所でモノレール計画の作業をしたんです」(「モノレール協会10年の歩みを振り返って」1974年頃) ■敷設免許が交付されるも、武州鉄道計画は幻に では、このような壮大な路線を計画したのは、一体どのような人物だったのか。意外なことに、それまで鉄道とはまったく関わりのなかった吉祥寺のスクラップ事業者、滝嶋総一郎という人物だった。 滝嶋は戦時中、立川の陸軍技術研究所の兵器係曹長だったが、戦後、米軍との関係を築き、旧陸軍の兵器・器材の払下げを受けてスクラップとして売却する事業を開始。朝鮮戦争勃発により、スクラップの値段が高騰し、財を成すと、昭和30年代に入る頃には不動産貸付業などにも進出。「吉祥寺名店会館」というビルを建てるまでになった。武州鉄道の構想が思い浮かんだのは、この頃だったという。 その後、滝嶋は埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行の前身のひとつ)から多額の資金を借り入れ、建設予定地の用地買収を進めるとともに、早期に鉄道敷設免許を取得するため政財界工作に奔走。財界有力者を介して、当時の岸内閣で運輸大臣を務めた楢橋渡(ならはし わたる)に接近し、「政治献金」の名の下、5回にわたって総計2,450万円の現金を渡すなどした。そして、これが命取りとなる。 1961(昭和36)年7月11日に武州鉄道の敷設免許が交付されたものの、この時点ですでに東京地検による内偵が進められており、間もなく滝嶋、楢橋ら関係者18人が逮捕されるという政界汚職事件「武州鉄道事件」へと発展したのである。 裁判の結果、滝嶋が楢橋に渡した現金は賄賂だったと認定され、一審で楢橋、滝嶋にいずれも懲役3年の実刑判決が言い渡された。控訴審(東京高裁)で楢橋に懲役2年執行猶予3年、滝嶋に懲役2年の有罪判決が確定。こうして、武州鉄道建設計画は幻と消え去ったのである。 だが、この武州鉄道がもしも実際に建設されていたならば、どのような路線になっていたのかは非常に興味深い。そこで、予定線をたどってみることにした。 ■多摩都市モノレール延伸予定線と重なる区間を経て、山岳地帯へ 武州鉄道が具体的にどこを通る予定だったのかは、じつはよくわかっていない。過去の資料を見ると、武州鉄道が発行した「武鉄ニュース」(1959年4月10日発行)には、大雑把な路線の予定図が掲載されているのみである。 一方、比較的最近作成されたものだが、東大和市の地元研究グループが、武州鉄道の関連不動産会社などによる土地の買収履歴等を調査し、多摩地区における路線を推定した「幻の武州鉄道」(2006年)という冊子に掲載された推定図は、信頼性が高いように思われる。今回、多摩地区に関しては、これを参考にすることにした。