松田直樹さん命日に執念ドロー。魂の継承者たちは何を思って戦ったのか?
王者・川崎フロンターレのボールポゼッションは実に70%近くに達した。しかし、パスを前後左右にテンポよくつなぎ、試合を支配し続けても放ったシュートは8本に、ゴールの枠内に飛んだそれはわずか1本に封じ込められた。当然ながらゴールを奪えずに90分間を終えた。 敵地・等々力陸上競技場に乗り込んだ松本山雅FCの選手たちが体を張り、闘志と執念を前面に押し出し、最後まで足を止めなかった証。先発メンバーのなかで最年長となる37歳のMF田中隼磨が、守備面に関してはゲームプランをほぼ完璧に実践できたと胸を張った。 「彼らにボールをもたせてカウンターを狙う、という僕たちの戦術的なプランをピッチの上で表現できた。なので、もたれても特に怖くなかったし、決定的なチャンスも相手にはなかった」 キックオフされた午後7時の気温が30度、湿度が68%という過酷な条件下で行われた、4日の明治安田生命J1リーグ第21節。肉を切らせて骨を断つ、とはならなかったが、スコアレスドローの末に王者からもぎ取った勝ち点1を、田中は努めてポジティブに受け止めた。 「今週取り組んできたことが実りました。相手のゴールへ何回か向かったなかで、僕たちに一発で仕留める力があれば勝ち点3を取れたんですけど、いまの僕たちの状況ではあまり欲を言えないので。アウェイで勝ち点を取れたことをプラスに考えていきたい」 特別な日に行われた一戦だった。8年前の2011年8月4日。この年にJ1の横浜F・マリノスからJFLを戦っていた松本山雅に移籍した、元日本代表DF松田直樹さんが練習中に急性心筋梗塞を発症。意識を取り戻すことなく、2日間の闘病後に34年間のあまりにも短すぎる生涯を閉じた。
松田さんの命日に松本山雅がリーグを戦うのは、J2を戦っていた昨年に続いて2度目となる。命日またはその前後の練習前に、練習場のピッチ中央に松田さんの写真を3枚飾り、首脳陣や選手、クラブ職員を含めたスタッフ全員で1分間の黙祷を捧げる儀式を、今年も前日3日に行った。 「いま日本中が暑いなかで、マツ(松田)さんが亡くなった日も同じような状況だったので。何か似ているような天候だな、と思いながら黙祷を捧げました」 こう語る田中はマリノス時代に通算7年半にわたってともにプレーした松田さんの、これでもかと負けん気をまき散らしながら、それでいて頼れる大きな背中をいまも追いかけ続けている。 マリノスから移った名古屋グランパスを退団した2013シーズンのオフ。数多く届いたJ1クラブからのオファーを断り、J2を戦って3シーズン目になる松本山雅へ移籍。遺族の承諾を得て、松田さんの急逝後は空き番になっていた「3番」を継承して今シーズンに至っている。 「あまり美談にはしたくない、という思いがこのチームにはあるし、二度とあんなことが起きてはいけない。絶対に(再発を)防がなければいけない、ということを子どもから大人の方々に対して、サッカー界だけでなくスポーツ界全体に対しても発信していくことが僕たちチームの、そして僕の使命でもあると思っています」 8度目の命日が近づいてきた先週のある日、一般社団法人松田直樹メモリアルNext Generationの理事を務める松田さんの姉、真紀さんにラインでメッセージを届けた。 「僕自身は『3番』をつけて戦っている限りは、彼の思いをもって戦っていますと伝えました。その思いは、これからも変わりません」