長寿研究のいまを知る(12)細胞のリプログラミングはどこまで進んでいるのか
いまの医療は高齢者の治療に必ずしも熱心に取り組んでいるようには見えない──。 そんな不満を持つ人もいるかもしれない。それは医療従事者が、がんを含めて高齢者が患う病気の多くが老化を加速する「病的老化」だと感じているからだ。 「老化」は制御できるのか? 世界中で若返りの研究も盛んに ある病気をコストをかけて完璧に治療して治せても、すでにその病気が老化を加速させており、延命につながらないと考えているのだ。 その意味では、前回取り上げたメトホルミンは世界初の抗老化薬に最も近い存在といえるかもしれない。2型糖尿病の治療薬として承認されてから65年。その効果と安全性のエビデンスが積み重ねられており、値段も250ミリグラム1錠が10円ほど。 現在、各国でその抗腫瘍、抗炎症などの研究が行われており、米国では主要14研究機関が参加するメトホルミンの研究が進んでいる。心臓病、がん、認知症などの加齢に伴う慢性疾患の発症遅延や進行の抑制が実現するかどうかを検証するもので、その結果によっては今後この薬が「病的老化」を防ぐ抗老化薬としての可能性が広がるきっかけになるかもしれない。 では、薬以外に老化を克服するためにはどんな手段があるのか? そのひとつとして注目されているのが「細胞のリプログラミング(初期化)」だ。 「私たちの体は、たくさんの機能を持った細胞でできていますが、元は母親のお腹の中にあるたったひとつの細胞です。それが分化して、それぞれの役割を果たす細胞になるのです。例えば、肝臓になる細胞は肝臓としての役割を発揮するために、それに見合った形や、機能できるように分化していきます」(ハーバード大学医学部&ソルボンヌ大学医学部客員教授の根来秀行医師) 通常、細胞は不可逆的で、いったん決まった臓器や細胞に分化した体細胞(体を作っていく細胞のこと。一方で卵子や精子になる生殖細胞は子孫に遺伝子を伝える役割がある)は、他の種類の細胞にはなれない。ひとたび心筋細胞になった細胞は、肝臓や神経の細胞にはなれないのだ。 「細胞のリプログラミングとは、分化により与えられた細胞の形や機能を初期化して未分化の状態に戻し、体を構成するあらゆる種類の細胞に分化できる多能性を持った幹細胞を作り出すことをいいます」 「分裂」と「分化」は混同されがちだが、「分裂」は細胞の数を増やすことであり、「分化」は細胞の役割に見合う役割を身に付けていくことをいう。 ■iPS細胞の作製過程を省く手法の開発も 細胞のリプログラミングを具体的に言うと「iPS細胞」ということになる。2006年に京大の山中伸弥教授(現京大iPS細胞研究所名誉所長)の研究グループが、マウス由来の体細胞に多様性をつかさどる4つの遺伝子を挿入することで生成に成功した。山中教授はこの画期的な発見により2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。 「同じような万能細胞にES細胞があります。ヒトの皮膚などの体細胞から作り出すiPS細胞は、ヒトの受精卵を破壊して取り出した細胞をもとに万能細胞を作るES細胞に比べて、倫理的懸念がありません。この発見により、必要な臓器や組織に分化誘導して、病気やケガで損なわれた臓器や組織に移植する再生医療や、iPS創薬(患者から生成したiPS細胞を使って病態を再現した疾患モデルを作って効果のある薬剤の開発をすること)などがより現実的になっています」 最近では、京大iPS細胞研究所の研究グループがヒトのiPS細胞から心筋細胞の増殖や血管の新生を促す「心臓周皮細胞」に似た細胞の作製に成功。心筋細胞と一緒に移植することで、心不全の治療効果をアップさせる可能性があるとして、5年以内の実用化を目指すことがニュースとなった。 とはいえ、発見から18年経過していながら、iPS細胞による再生医療が必ずしも進展しているように見えないのはなぜなのか? 「iPS細胞の実用化にはいくつもの課題があります。例えば、同じ人から採取して培養し生成したiPS細胞でも、増殖や分化にばらつきがあるため、分化能力の低いiPS細胞を用いて臓器や組織を作ろうとすると、分化しきれない細胞が残ってテラトーマと呼ばれる良性腫瘍ができてしまいます。体細胞からiPS細胞を作り出して、目的とした臓器や組織にまで分化させるのに長い時間がかかることも問題です。現在はこうした課題を克服し、実用化するための研究が進んでいます」 今は「ダイレクトリプログラミング」という手法も注目されている。採取した体細胞に特定の因子を植え込むことでiPS細胞を作る過程をカットし、直接目的とする細胞を作り出す。時間や費用を節約できるばかりでなく、成熟度の高い細胞が作れる。ただし、ダイレクトリプログラミングを誘導する特定の因子を探索することが課題となる。 (つづく)