「小説家とともに二郎系ラーメンを啜る」小山田浩子が実直に描写した“昼食の記録”の没入感/『小さい午餐』書評
世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。 ご飯を食べる。その様子を記録する。そのありふれた日常の記録が積み重なると、見えてくるものがあるらしい。極私的なことから世界単位の大きなものまでが、そこにはびっしりと詰め込まれているのだ。 『小さい午餐』(twililight)は、小説家・小山田浩子のランチ=午餐の記録だ。2019年の初めから2021年の初めのほぼ2年間の連載に加え、2024年に書き下ろされた2編を収録している。小山田はとにかくご飯を食べている。そしてその一部始終を、食べるに至った経緯、お店までの道中、お店の外観と店内状況(店員や客の様子)、使われているであろうと予測する食材などに至るまで、ひたすら実直に描写する。食す午餐は居酒屋の日替わり定食、流行りのタピオカドリンク、機内食、ちょっと敷居の高そうなビュッフェ……などと幅広い。 小山田自身が食べることに楽しみを見出しているからなのだろうが(ときにそれは純粋な楽しさではないこともあるのだが、だからこそ)、決して技巧派でもなく博識でもない実直な描写にもかかわらず(そして私が特に食に関心がないにもかかわらず)、グルメ番組なら撮り直しになるような「レポ」であってもそこには惹かれるものがあり、私は小山田の食しているものを食べてみたくなる。 たとえば、おそらく二郎系と思われるラーメン屋にそうとは知らずに入り、注文で混乱する小山田を見ていたら……と書いていて気がつくのだが、私は、つまり読者は、小山田を見ているわけではない。実際には小山田が自身の振る舞いを描写した文字列を読んでいるだけなのだが、なぜか我々読者は「現場」にいるような気がしてくるのだ。二郎系ラーメンを食したことのある者は自身の記憶の中にあるその店とラーメンを思い出しながら、小山田同様に初の「来店」を果たした者は小山田の描写をもとに各々勝手に想像/創造しながら、ともに麺を啜っている。 小山田の文章には妙な没入感があるようだ。気がつくと共に注文で混乱し麺を啜っているのだが、それは状況描写と心理描写を切り離さずシームレスに繫げていく文体に要因があるのかもしれない。時に1ページ以上にもわたって改行なしピリオドなしの描写が続き、その間にお店と食べているものと自分のこと、そしてそれらすべてを取り巻く世界のことを小山田は書き連ね、我々読者はそれを浴びる。浴びているうちに、小山田と共にご飯を食べている。あるいはもはや小山田となって自ら語りながら、ひとりご飯を食べている。 食べることは日常である。日常であるからこそ、自分を取り巻く世界の状況とは切り離せない。子育て中の小山田は昼に麺類をよく食べる。コロナ禍に入ればその影響を受ける。もし今年2024年の夏に連載をしていたら、米不足&価格高騰を背景に(あるいは前景に)しながら、酷暑の日中に“小さい午餐”を求める姿が描写されていただろう。 それは特筆すべきことでもなんでもないありふれた日常であり、小山田だけではない我々皆にとっての生活である。となると本書で描かれた小山田の日常は、わざわざ描かれるまでもなく、すでに我々の日常だったということだ。つまり我々はもう知っているはずなのだ。小山田が食べる“小さい午餐”を、午餐の最中に小山田に去来するあらゆる思いを。 「暗くなったり考えこんだり泣けたり、調子に乗って失敗したりもする日々ですが、お昼ご飯がある程度おいしく楽しく食べられたらありがたい、大丈夫だ、と感じます。どこで生まれても、暮らしていても、誰もが食べたいようにお昼ご飯を食べられる世界であるよう、強く願っています」(5p)というまえがきの締めは、何度でも読み返したい。極私的なことから世界単位の大きなものまでが、ここにはびっしりと詰め込まれている。そのことが、本書を読み終えた者には体感できるはずだからだ。 評者/関口竜平 1993年2月26日生まれ。法政大学文学部英文学科、同大学院人文科学研究科英文学専攻(修士課程)修了ののち、本屋lighthouseを立ち上げる。著書『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』(大月書店)。将来の夢は首位打者(草野球)。特技は二度寝 ―[書店員の書評]―
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