生きるのはなぜこんなに不安なのか…どこにいっても居場所がない「人間の本質」
「アントロポロジー」とは何か
三木清の初期の関心を規定していたものを一言で表現すると、おそらく「アントロポロギー」(Anthropologie, 人間学)ということになるであろう。彼の最初の著作は、『パスカルに於ける人間の研究』(一九二六年)であったし、それ以後彼が示すようになったマルクシズムへの関心も、「人間学のマルクス的形態」(一九二七年)という論文が示すように、留学中に触れた「人間学」への関心と深く結びついたものであった。 『パスカルに於ける人間の研究』の「序」で三木は次のように述べている。「『パンセ』に於て我々の出逢うものは意識や精神の研究でなくして、却て具体的なる人間の研究、即ち文字通りの意味に於けるアントロポロジーである」(一・四)。パスカルが『パンセ』のなかで問題にしようとしたのは、意識や精神という一つの側面に限定された人間ではなく、その全体、「具体的なる人間」であったというのである。 ここでは、「具体的なる人間」と言われているだけであるが、後に『構想力の論理 第一』(一九三九年)の「序」のなかで、この書を振り返って、三木は次のように記している。「合理的なもの、ロゴス的なものに心を寄せながらも、主観性、内面性、パトス的なものは私にとってつねに避け難い問題であった。パスカルが私を捉えた……のも、或はまたハイデッゲルが私に影響したのも、そのためである」(八・四)。 三木の関心を引いたのは、理性をもち論理的に思考するロゴス的な存在であるだけでなく、同時に欲望や感情をもち、情念に動かされるパトス的な存在である人間であったと言ってよいであろう。三木はのちに発表した「読書遍歴」(一九四一年)と題する随筆のなかで、マールブルク大学のハイデガーのもとで学んでいたとき、やはりそのもとで研鑽を積んでいたカール・レーヴィット(Karl Löwith, 1897-1973)から勧められ、当時ドイツの多くの青年をとらえていた「不安の哲学とか不安の文学」、具体的に言えば、ニーチェやキェルケゴール、ドストエフスキーなどを読みふけったと記している。先の引用文のなかで「主観性、内面性、パトス的なもの」と言われていたものは、この「不安」ということばでも言いかえられるであろう。三木が帰国を前にパリの書店で偶然手にした『パンセ』に引き込まれ、『パスカルに於ける人間の研究』を書き始めたのも、そのなかにいま言ったような不安、内面性が息づいているのを見いだしたからであったと言うことができる。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝