ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (69) 外山脩
細江医師は、暫くこの林田の処に患者を預かって貰うことにした。 カンポス・ジョルドンには、ほかにサナトリウムが二、三あった。気温冷涼で、長期療養に適した土地であり、地元の反発もなかったからである。 そこで、ここに同仁会の療養所をつくろうということになった。具体化のため種々研究していると、右の二、三のサナトリウムの敷地は、この辺りに幾つもの土地を持つマセド・ソアーレス外相の寄贈であることが判った。 それなら日本移民のためにも……と交渉してみると、幸い了承してくれた。これが一九三五年のことである。 しかも総領事館が「同仁会に出す予算があるから、それで仮施設でもよいから、早急につくれ」という。そこで施設めいたモノを作り治療を開始した。一応の完成をみたのは一九三八年である。 付記しておけば、日系社会が二十五周年を迎える少し前から、ブラジル社会は動乱期に入っていた。 一九三〇年、いわゆるゼッツリオ・ヴァルガス革命が発生。以後、サンパウロ州の反乱、クーデター騒ぎなどが相次ぐ。日系社会の歴史は、その中で形成されていた。 反骨の記者三浦鑿 ところで、この頃、一人の奇人が歴史の表舞台に登場していた。三浦鑿(さく)である。 三浦は前章で触れた様に、日伯新聞の紙面でいわゆる権威やその追従者を斬りまくっていた。つまり反骨精神を遺憾なく発揮していた。 当時、日系社会の権威といえば、日本政府の代表たる大使や総領事であった。彼らを「閣下」と呼ぶ追従者も居た。 が、三浦は君呼ばわりしたり呼び捨てにしたりした。遠慮会釈なくからかい、貶し、批判した。 日本から来た外務次官に対しても同じだった。 追従者などクズ扱いだった。 三浦は、役人以外の一部邦人にも遠慮なかった。 被害に遭った方は、彼を嫌悪した。自然、反三浦派が生まれた。 が、庶民層の読者には圧倒的な人気があった。 その嫌悪と人気を鮮やかに物語る事件があった。国外追放騒動である。 一九三一年、反三浦派が彼の国外追放を企て、それがブラジル政府の司法大臣に容認された。三浦は逮捕され、外国向けの船に乗せられてしまう。 が、それを知った社員や友人たちが、追放取消し運動を起こし、署名を集めた。 署名は物凄い勢いで集まり、結局、大統領によって追放令は取り消された。 三浦は途中から引き返し、歓呼の声に迎えられてサンパウロ入りした。 詳しくは後述するが、三浦は、これで伝説の人となる。 この三浦という男は、そもそもブラジルへ来た時の、その現れ方からして伝説的であった。移民ではなかった。商社マンでも旅行者でもなかった。何しろ、この国の軍艦に乗ってやってきたのだ。 そのいきさつについては諸説ある。 「仲間と南洋の島にアホウドリを密猟に行った。密猟終了後、迎えに来る筈だった船が来ず、置き捨てられた形となった。それをブラジル海軍の練習艦に発見・救助され、日本に送り届けられた。その時頼み込んで再乗船しリオ・デ・ジャネイロまで来た」 という説があり、他にも二、三の説がある。内容はそれぞれ違うが、ブラジル海軍の軍艦でやってきたという点は、共通している。 他国の軍艦に便乗などということは、常識的には難しい感じがする。が、一章で記した大武和三郎の例もある。第二次世界大戦後のことになるが、力行会の移民が七五名、三度に分けてブラジル海軍の艦船で渡航したという事実もある。 三浦がリオで下船したのは一九〇八年、笠戸丸のサントス入港の半年くらい後であった。 三浦の生まれは一八八一(明14)年ということになっている。事実なら、歳は二十代の後半だった計算になる。 出身地については愛媛、高知、その他……これも諸説ある。生まれも育ちも、かなり複雑だった様だ。 青年期に入る頃から、東京で英語を学び柔道を修行した。その後、新潟県の中学校の嘱託英語教師になった。が、長くは続かず、以後アチコチ転々とした。北海道で暮らしていたこともあれば上海に居たこともあるという。放浪に近い生活だったことになる。