「定年後が見通せない」「どうせ私なんか何をやっても」と口にしがちな人こそが「最高の能力」を秘めているこれだけのワケ
必要なのは「特に努力しなくても自動的にできてしまう」学びを見つけ出すこと
――学ばねばという強迫観念は捨ててよいということですね。そもそも「学び」という言葉そのものが強迫的だなと感じることがあります。 たとえば子どもはポケモンを500種類以上わくわくしながら覚えますよね。なのに、英単語はそうはいかない。これが学校教育の呪縛です。呪縛によって勉強とは「つまらないけれど我慢してやらないとならないもの」だと植え付けられてしまったのが日本の不幸です。 「未来のためにしたくもない学びをしないとならない」というのでは長続きしません。楽しいことが大事です。必要なのは他人との競争ではなく、「自己ベストの更新をはかること」。家事でも育児でも人間関係でも、自己ベストの更新をはかっている人はイキイキしています。なのに「これが必要だ」「これをやらなければならない」と言われると、急に「義務感」「やらされ感」が出ます。 そうではなく、「学ぶのって楽しいよ」という原点に立ち返ってほしいのです。興味関心を持っていて、努力せずとも自然にできる、それが学びの本質です。 ――「努力してこそ学習」という、その感覚自体が「強制されて持たされてきたもの」だということですね。 学校教育の中では、学校が定めた種目の中で他人と比較され続け、点数がつきました。その延長線に仕事があり、学校教育の延長線上で仕事の報酬スケールが決まっている可能性すらあります。今後AIが伸びてくる社会で、これらは仕組みとしてすでにうまくいってないのです。 子どもはこうした矛盾を敏感に察知していて「こんな勉強、社会と関係ない」と言い出しています。それが不登校という事象なのではないかと思います。不登校はじつは子どもの問題ではなく、学校制度が社会のあり方にいまだ対応しないまま世界に何周も遅れ、自己変革のシステムも作動しない機能不全の表出です。 ですから、不登校のお子さんを持つお母さんは心配しなくて大丈夫です。問題はお子さんではなく学校の側にあり、いずれ社会の側が変革していきます。 ぼくは不登校を「登校選択」「在宅選択」という言葉に変えてほしいと思っています。「学校という仕組みが合わないので在宅選択をしました」と言えるようになってほしい。 教育機会確保法が施行され、教育機会は行政側が提供しなければならない社会になりましたから、これらはいずれ達成されます。ですから学校に行かないことを気に病む必要はありません。