「地震さえなければ100歳まで生きられた」98歳母親の災害関連死、息子悔やむ「避難所生活で言葉を発しなくなり、ご飯を自分で食べられなくなった」2次避難しない『選択の理由』を被災者に聞く【能登半島地震:取材リポート】
「母は避難所生活をしてから言葉を発しなくなりました」
自分が近くにいた方がいいのでは、と純男さんは6日から母親と避難所生活をはじめました。しかし慣れない避難所生活で、母の体調は悪化していきました。 「母は避難所生活をしてから言葉を発しなくなりました。普通なら自分で椅子でご飯を食べていたのが、避難所生活では完全に頼りきって、私がご飯を食べさせていた。たぶん、環境が変わったので驚いていたんだと思う。本人にしてみれば、ここがどこかはっきりわかっていなかったのではないか」 当初は寒く底冷えのする体育館、途中からは暖房のある教室に移りましたが、やよゐさんは、のどが乾燥して咳をするようになりました。「相当、乾燥していたんだろう。渇いた咳をするようになって、だんだん体調も悪くなり…疲れやストレスもあったんだと思う」
「これ(地震)さえなければ…100歳は確実に生きていた」
1月11日、やよゐさんは朝食のおかゆを、のどに詰まらせて亡くなりました。この日、純男さんはやよゐさんと共に避難所を出て、姉の住む小松市に移ろうとしていた、その矢先の出来事でした。 (蔵純男さん)「これ(地震)さえなければ…。私としては母を看れば100歳は確実に生きていた。こんな震災で…。迷惑をかけたくないと最後は遠慮させたのかもしれない」 葬儀はできず、火葬を終えて、自宅に戻ったやよゐさん。遺影なき祭壇が、この1か月の混乱を示していました。
地域に残る選択をする理由と背景は
筆者は1月中旬から下旬にかけて能登半島で取材を行いました。その時期は、長い避難所生活で、災害関連死リスクが高まると言われながらも、2次避難をせず断水が続く地域に残る選択をする被災者がいました。そうした選択の理由や背景を、それぞれの被災者に聞いていきました。 珠洲市宝立町で出会った80代女性はこう話します。「知らないところに行くとストレスがたまる。避難所は、知っている人同士で話ができるし、何より同じように家が潰れた被災者同士で気持ちもわかる。気持ちは張っているけど、1人になるとストレスになる。」 女性は子供や孫と避難の選択が分かれていました。 「息子と孫は2次避難したけど、私は住み慣れた場所から離れた知らない場所の景色だとノイローゼになるかもしれない。罹災証明などの書類を出さないと仮設住宅も当たらないし、ここだといつでも話ができる」