欧米いいとこ取りで日本の文明は発展した 旧司法省建築と日本人の柔軟性
現在の世界で、都市と建築の美観をもっとも誇りうるのは、やはりパリである。 その骨格は、ナポレオン三世の委任を受けたセーヌ県知事オスマンによるパリ大改造(19世紀半ば、オスマニザシオンとも呼ばれる)によって築かれた。多くの古い建築を取り壊し、記念建築物を中心に幅広い道路を放射状に通すことによって、パリは、建築的ヴィスタに満ちた多極放射状都市として、世界の政治家が憧れる「帝都のヴィジョン」を形成したのだ。エンデとベックマンの計画にもそれが現れている。 現在の東京において、多少ともこの感覚が実現しているのが国会議事堂と東京駅である。しかし期せずして1930年代、日本の建築家と都市計画家は、白紙に絵を描くような都市計画実現の機会をえた。満州(中国東北地方)の新京(現在の長春)である。だいぶ前になるが、現地を訪れた僕は、日本がつくった、ゆったりとした放射状の並木道と立派な建築に潤いを感じた。しかしその周囲にパリのような稠密な建築は存在しない。そこに実現したのはやはり、にわかづくりの権力の理想であったのだ。 明治洋風建築に現れたイギリスとドイツのライバル関係は、そのまま日本社会の二つの側面のライバル関係を象徴しているように思える。海軍はイギリス、陸軍はドイツ、議会はイギリス、官僚はドイツ、学術、教育、技術などのそれぞれにもそういった関係がある。 建築におけるフランスの影響は次第に薄れていったが、美術における印象派、工芸デザインにおけるアール・ヌーヴォーの影響は強く、当時の装飾的建築教育におけるボザール(エコール・ド・ボザール、フランスの芸術学校)の力と、モダニズムの進展とともにそれに対抗したル・コルビュジエの力によって、今も日本建築界では、エスキス、ピロティ、ファサードなど、フランス語がけっこう使われる。 大正時代になると、建築やデザインに、その工業先進性と、フランスから伝わったアール・デコとで、アメリカの影響が強くなり、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの来日につながっていく。