欧米いいとこ取りで日本の文明は発展した 旧司法省建築と日本人の柔軟性
官庁集中計画を実現すべく、ベックマンら、ドイツの建築家、技術者が来日するとともに、日本から、建築家の渡辺譲、妻木頼黄、河合浩蔵がドイツに留学する。ベックマンの原案は、皇居と、国会議事堂と、中央駅(のちに東京駅として実現するが、位置は少しズレている)を三つの極として、ブールバールとも言うべき幅広い道路を一部放射状に通して、多数の洋風官庁舎を配置するという壮大なものであった。 東京は「東洋のパリもしくはベルリン」という相貌の帝都として生まれ変わるはずであった。 しかし、すべての官庁を洋風建築で一挙に建てるということには反対意見が強かった。そして条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞すことによって、この計画は実現されなかった。わずかに大審院(戦災で焼失後復元されたが取り壊された)と司法省が、エンデとベックマンの案に基づいて建設されたのである。 司法省の実施設計と工事管理は河合浩蔵が行ったが、ドイツ留学組の一人、妻木頼黄は、大蔵省を中心に、日本の官庁営繕体系を確立した人物で、民間の設計事務所を主宰した辰野金吾とライバル関係にある。前に述べたように、辰野は東京駅(日本鉄道網の中心)を設計し、妻木は日本橋(日本道路網の中心)の装飾顧問(土木設計においてこの地位はデザイン監修にあたるのではないか)を行っている。辰野金吾は、ジョサイア・コンドルの一番弟子で帝国大学教授となり建築学会の創設にも当たっているから、そう考えればここに、「イギリス=コンドル=辰野=民間(学界)・vs・ドイツ=エンデとベックマン=妻木=官庁」というライバル関係が成立することになる。
残念ながらこの官庁集中計画は実現しなかった。 なぜ反対があったかと言えば、財政難とともに、国粋主義があったからだ。 黒船来航以来、攘夷と開国がせめぎ合ったように、日本人の精神は、常に西洋への憧憬と反感のあいだで揺れ動いていた。維新後、2年近くをかけて米欧を回覧した岩倉使節団(西洋派)と留守番組(国粋派)との対立が、征韓論となり、西南戦争となる。西郷はその反感の頂点としての不平武士たちの怨念を背負ったのである。最後の内戦ともいうべき苛烈な戦いが終わったあとに、井上を中心に展開された鹿鳴館外交は、その憧憬の頂点であった。その意味で、西郷隆盛と井上馨は対極的な人物像である。西郷の死によって西にふれた振り子が、井上の失脚によって、再び東に振り返したのだ。 いかにもバロック風のエンデとベックマンの計画が実現していたら、東京の霞が関は、見事な洋風建築が建ち並ぶ上海バンド(外灘)のような様相を呈していたかもしれない。この時代の中国は半植民地状態であったから、列強の力によってこのような建築が実現したのであるが、この時代の日本は日清戦争(明治27~28年)に勝利し、帝国として日の昇る勢いであったから、逆にナショナリズムが作用したのだろう。 しかし現在、上海バンドは大勢の外国人でにぎわう一大観光資源となっているが、日曜日の霞が関はほとんど人がいない。これでは人間的魅力をもつ官僚が育たないと思えるほど、魅力のない建築ばかりである。 とはいえ筆者は、当時の政府がエンデとベックマンの計画を実現すべきであったとは考えていない。当時の財政事情からも日本人のナショナリズムからも不可能であった。そして何よりも、当のヨーロッパにおいて、過去の様式を否定して機能に基づいて形を決める、モダニズム建築の足音が近づいて来ていたからである。