島津斉彬による「ペリー来航への対処策」 幕府提出前に原文から削除していた本音
ペリー来航に際し、薩摩藩主・島津斉彬は幕府に海防強化の必要性を訴えた。幕末の危機を、単なる領国間の問題ではなく、国家全体の存亡に関わる問題として捉え、積極的な国防体制の構築を提唱していたのだ。斉彬の国家論について、書籍『島津氏』(PHP新書)より解説する。 【写真】島津斉彬の肖像 ※本稿は、新名一仁, 徳永和喜著『島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです
斉彬の国家論・経営論
藩主に就任した斉彬の現実的な国家論・藩主論をみる。 天璋院篤姫の入輿は、島津斉彬が中心となって展開した政治的婚姻であったことはいうまでもない。ここでは、斉彬が藩主として、また、斉彬個人として篤姫を将軍家に入輿させれば「全く心おきなく外圧防備のための防備を充分に仕り、より一層の奉公に励むことができる」と語っている(「御一条初発より之大意」『斉彬公史料第四巻』)。 斉彬の国家論は領国内の防備体制の確立という狭い領国論ではなく、国家存亡の危機を意識した国家論を基底に持つものであった。 斉彬は幕末の外圧による危機を為政者による国家観の欠如と考え、今後必要とされる国家観の概念を、「公儀も諸大名もこれまでの一国一郡支配の考えであっては日本国を守備することはできない」と、領国支配から日本国全体を意識した国家観を共有することが必要であることを示している(『島津斉彬言行録』)。明確な国家観を持って、どのような施策を組み立てるかを考えなくてはならないという。 領国にあっては、「国の本は農とこそ言えり、勧農は政事の本なり」とし、農業の絶対的必要性を確認しながらも、急務とすべきは工業を誘導することであるというのである。工業の育成は緩急の区分があり、「緩」とは工業育成発展の基礎は教育であり、幼少からの教育が重要であるという。 しかし、今時の工業化は軍艦・大砲の製造など軍事基盤の早急なる体制づくりを意識する「急」であり、まず工業の技術や工業製品を導入することにあると論じている。斉彬といえば近代化工業化としての藩営マニュファクチャー・集成館事業が知られているが、教育の重視を徹底的に実行した人物であることが忘れられている。