【光る君へ】0歳で即位の天皇も?平安時代に幼帝が珍しくなかったワケ
わかりやすい例えでいうならば、零細商店で未亡人が「おかみさん」として店を取り仕切っていたのが、株式会社になって「社長」と呼ばれるようになったようなものだと思う。 天武天皇のあとは、皇后の持統天皇との子である草壁皇子が継ぐ予定だったが、若すぎたので、持統天皇が政務を見た(称制)。だが、草壁皇子が28歳で死去したため、持統天皇が即位した。 その持統天皇は54歳で譲位し、強引に孫の16歳の文武天皇に引き継いだ。壬申の乱を天智の娘である持統天皇と天智の弟の天武天皇の夫婦で乗り切った以上、この二人の血筋が優先すべきだという気持ちが、年齢制限の壁を乗り越えさせた。 ところが、文武天皇は病弱で25歳で死んだので、聖武天皇の成長を待つために、文武天皇の母の元明天皇とその娘で独身の元正天皇が即位し、聖武天皇が25歳になったところで即位させた。 聖武天皇は、光明皇后との娘の孝謙天皇に譲位した。だが、孝謙天皇は塩焼王を太子にしながら廃嫡し、淳仁天皇に譲位したのち重祚し(称徳天皇)、怪僧道鏡への譲位を模索したが諦めた。孝謙天皇の死去後、めいである井上内親王の夫で天智天皇の孫の光仁天皇が即位した。 この孝謙・称徳天皇の前後の時代にあっては、さまざまな登場人物の思惑が錯綜し、また、時とともにそれぞれが意見を変遷させていったので、藤原氏の思惑で事態が動いていったという捉え方は間違っている。 ● 最後に幼児が天皇となったのは 明治天皇の曾祖父である光格天皇 皇嗣たる次期天皇をあらかじめ定めて皇太子とか東宮とか言うことは、聖徳太子のころからあったようだが、奈良時代に律令制のもとで発展し、平安時代以降には定着し、立太子礼が行われ、そこで壺切御剣が親授されることが多くなった(戦国時代などでは儲君の比定のみで儀式は省略)。 平安初期の恒貞親王(仁明天皇のとき)までは、皇嗣とされても廃太子されることが頻発した。だが、それ以降は、南北朝の混乱期を除けば、藤原道長の横車で辞退した敦明親王(小一条院)が唯一の例である(秋篠宮皇嗣殿下の立皇嗣と壺切御剣の親授は2022年に行われた)。