【光る君へ】0歳で即位の天皇も?平安時代に幼帝が珍しくなかったワケ
● 『光る君へ』の時代において 幼い天皇は珍しくなかった 『光る君へ』では、一条天皇を演じた塩野瑛久さんの高貴で端正な顔と、視線や表情だけで感情の移ろいを繊細に表現する演技が、『源氏物語』の雅の世界をみごとに表現していた。 それとともに、幼い親王たちのかわいらしさも話題になった。 わずか9歳の後一条天皇が、生母・彰子皇太后に抱かれて高御座(たかみくら)に上って即位した。また、親裁を行う際、横に座って耳打ちする祖父・道長の言葉をオウム返しするだけなのも、異様な景色だった。 しかし、この時代、幼い天皇は珍しくなく、父である一条天皇も7歳で即位している。最年少は平安時代末期の六条天皇で、2歳(数え年なので満年齢では0歳)で即位して5歳で退位している。自分が天皇だったことすら覚えていなかっただろう。 最近は女性天皇の可能性も議論されているが、日本の皇室2000年の歴史のなかで、皇位継承について、変わらなかったものと時代によって変化したものは何か、また、その変化にはどのような動機や背景があったのか、解説したい。 ● 30歳以上が即位の条件となり 若ければ兄弟や女性がつないだ 『日本書紀』に記述されている歴代天皇に関して、399年に107歳で崩御したとされる仁徳天皇までは、正しい生没年ではない。だが、それ以降についての記述は、中国の史書や考古学上の手がかりと齟齬(そご)はなく、嘘だと決めつける理由はない。 また、仁徳天皇以前の天皇の生没年や即位年も、通常の寿命や『日本書紀』に書かれている家族関係から、ある程度は推測できる。
大和南部の小国の王として出発して、大和を統一し、吉備や出雲まで支配下に置いた崇神天皇は、卑弥呼の跡を継いだ宗女・壱与と同時代人で、250年前後の即位とみられる。それ以前は、日向からやってきて橿原の地に小さな王国を建てた神武天皇から、親子継承が9回行われたとされる。 フランス王家では初代ユーグ・カペーから11代も父子相続が連続していたから、ありえないわけではないが、記憶が十分伝承されていなかった可能性もある。 崇神天皇以降は、父子継承が原則だが、長男優先とは限らない。母親の出自も大事な要素だった。即位は30歳以上を条件とし(例外は近親がいなかった武烈天皇のみ)、生前退位はせず、子どもが若すぎたら、兄弟や女性がつないでいた。 継体天皇については新王朝ともいわれる。だが、仁徳天皇の男系子孫が絶えたので、その父である応神天皇の男系子孫のなかから母系でも前王朝に近かった有力者が即位しただけだ。継体天皇が仁徳朝を征服して天皇になったのなら華々しい武勇伝があるはずだが、それが皆無なのは決定的な傍証だ。 聖徳太子が即位しなかったとか、大化の改新のあと天智天皇がなかなか即位しなかったとかいうのも、前述の30歳の原則で説明できる。壬申の乱時の弘文天皇は即位していなかったと思う。この原則が崩れるのは16歳の文武天皇即位の時だ。 初の生前退位は、大化の改新時の皇極天皇だ。大化の改新で皇極天皇がいったん退位したことで実現したが、626年の唐代に起きた玄武門の変で、髙祖から太宗に生前退位したことが影響したのでないか。 ● 最初の女帝となった 推古天皇は突然の出現ではない 推古天皇は最初の女帝であるが、突然の出現ではない。女帝について詳しくは別の機会に説明したいが、『日本書紀』でも、神功皇太后(開化天皇の男系子孫)は事実上の女帝として扱われているし(「女帝ではない」としたのは大正時代)、武烈天皇の後に飯豊皇女、宣化天皇の後に山田皇女を即位させようという動きもあった。 もともと男性で年齢的にも妥当な皇位継承者がいないときに、皇后や皇女が政務を預かることもあったが、文字の普及が進んだ時代の推古天皇に至り、正式に君主(当時はスメラギなどといっていたはず)として公式に扱うことになったのでないか。