和歌山毒物カレー事件を検証し直すドキュメンタリー映画『マミー』。監督がメディアに求めるものとは
冤罪の可能性に触れづらい空気がある
―「映画.com」の対談記事で、是枝裕和監督と想田和弘監督がドキュメンタリーを撮る者が背負う「被写体への責任」についてお話されていましたね。今回、映画公開を目前にしたタイミングで長男に誹謗中傷が向けられました。そこであらためてドキュメンタリーの暴力性と被写体への責任を考える契機となったのですが、その点について二村監督はどう考えられますか? 二村:長男が誹謗中傷を受けたことについては、いまでも何ができたんだろうかと考え続けています。「digTV」で公開したり、長男が発信してきた情報と大きく異なる内容を作中で出していたりするわけではないという認識ではあるのですが、それを映画にしたときの影響を甘く見積もっていました。 本作が長男に焦点を当てていることは事実ですが、あくまで事件を検証することが目的であって、林家の主張だけを取り上げた作品ではないことは観てもらえればわかると思うんですよ。ただ公開前に情報が一人歩きしてしまったことは想定しきれていませんでしたし、そこはもっと配慮すべき点だったと思います。 ただドキュメンタリーは撮る、撮られる関係性のなかでできるものなので、片側が責任すべてを負うことは難しいとも考えていて。「すべてこちらで何とかする」と言えば嘘になるので、そこは被写体の方と、リスクも含めお互いに納得をしたなかで進めていくのがドキュメンタリーのあるべき姿ではないかなと思います。 ―先の対談記事で、両監督がドキュメンタリーで一番大事にしているのは「現場で何を発見するか」ということだと語っていたのですが、二村監督が本作を撮影していくなかでの一番の発見は何でしたか? 二村:眞須美さんが冤罪である可能性を語ることの、社会的意義の大きさが何よりの発見でした。取材現場で会う記者やメディアの方々は、科学鑑定や目撃証言の矛盾や問題点など僕と同じ情報を持っているのに、それを世に出そうとはしないんですよ。 世の中に冤罪の可能性に触れてはいけない空気があることにだんだんと気づき始めて、それがこの事件を26年も塩漬けにしているのではないかと思うようになりました。冤罪の可能性を語る意義に気づけたことは、この映画がどういう意味や影響を持つかを考えるきっかけにもなりましたね。 二村:取材で会った若い記者の方々から聞いたんですが、この事件の冤罪の可能性を検証したいと社内で訴えても上からストップがかかるそうです。なぜなら、当時現場で事件を取材していた記者が現在偉い役職に就いているから。いわばその人たちがやってきた仕事を否定することになるので通らないと話していました。 この映画の試写に来てくれた新聞社やテレビ局関係者のなかにも冤罪の可能性が高いと感じている方はいました。ただそれを表明するためには、並々ならぬ覚悟が必要となります。 逮捕前から林眞須美が犯人だと決めつける報道が延々と繰り返されていたので、自分たちの行ないを批判し、検証するためには相当な労力を要しますし、検証したとしても過ちの責任はどう取るのかという話になりますよね。そういったことを避けるため、あえて触れないのではないかと思います。もちろん冤罪と考えていないので検証しない、という立場の人もいるでしょう。 ―『マミー』に対するSNSでの反応を見ていると、「自分は冤罪だと思っていた」と言う人もいます。 二村:むしろこれまでSNSでは冤罪側に寄り過ぎているとも感じていて。世間では眞須美さんの冤罪の可能性を話しても、「何言ってるんだ?」という反応が大半なんですよ。劇中、和歌山駅で「林眞須美さんを支援する会」に絡む男性がいましたが、考え方としてはあれが一般的かなと。 ―劇中で当時事件を担当していたジャーナリストが、事件を客観的に見られないからいま再びこの事件を扱うことは意味がないと話していました。当時事件を取り上げていたメディアがいますべきことは何だと思いますか? 二村:やはり真摯に検証してもらうことに尽きます。例えば眞須美さんの死刑が執行された途端に事件の検証が始まることは容易に想像がつくんです。そういった事例はこれまでもありますが、そうならないように一刻も早く取り組んでもらいたいなと。 僕もテレビの人間としてこの事件を扱うハードルの高さは認識しつつも、検証しようとする人が少しでも現れてくれれば何か変わるんじゃないかなと考えていて。それは別に冤罪前提である必要はなくて、事実として出ている内容を扱ってくれれば良いと思うんです。新聞社やテレビ局には僕が手に入れられない事件当時の膨大な資料やインタビュー映像もあるはずなので、そういったものを用いてぜひ検証してほしいですね。