富岡八幡宮と世襲歓迎の弊害──「地盤相続社会」における村々の“小権力”
地盤相続社会
政治家の選挙地盤と、神社仏閣の信徒組織は、土地に根ざしている。 その地に古くから存在する人間と人間の関係、家と家との関係が、世襲という血の連続性によって担保されている。血統が維持されることによって地縁が維持される。そこには日本文化の土着性としての血と土の情念がマグマのようにうごめいているのだ。 宗教家と政治家はその地縁=地盤を相続する。 現代日本では、物的財産の相続にはかなりの税金が賦課される。三代続けばゼロになるといわれる。しかし地盤相続には税金がかからない。そのメカニズムを利用して力と財を蓄積するシステムが、政治家の後援会であり、宗教家の信徒組織である。 今の日本では、財産相続よりも地盤相続の方が有利なのだ。
村々の小権力
宗教家の信徒組織、政治家の後援会が存続する理由の一つは、人々の精神的なつながりであり、文化の継承であり、地域の発展であり、必ずしも否定されることではない。 しかしそれが利権に結びついている場合も少なくない。地域社会の細かい意思決定において、宗教家や政治家を取り巻く有力者が利益を得るのだ。日本の津々浦々には、こういった「村々の小権力」が、網の目のように張り巡らされている。 つまり日本社会は、総理、閣僚、官僚などがもつ「中央の大権力」と、今述べたような「村々の小権力」のバランスで構成されている。通常、小権力は大権力に頭を下げて、利便を計ってもらおうとする。それが陳情である。しかしある時点で、この力関係は逆転する。それが選挙である。つまり選挙とは、「村々」の「中央」に対する逆転の祭りなのだ。
万世一系と家の論理
もちろん天皇制が背景にある。「万世一系」とは世襲論理の象徴であり、貴族社会も、武家社会も、日本文化自体が「家」という枠組みにおける世襲で構成されてきた。「乱世」や「下克上」とは、時に生じるその秩序変動を意味する。 明治維新によって、日本は西欧の近代国家をモデルにしながらも、天皇を家長とする「国家=国という家」をつくりあげた。「一億総天皇の赤子」という擬似的な家族主義が、昭和クーデターと太平洋戦争の原因となったことは丸山真男の指摘したところでもある。政教分離とは、その家族精神を介して宗教と政治が一体化した苦い経験からくる知恵であった。 勲章という制度も、何々協会という公的な衣をまとった同業者の組合も、この「家の論理」であり、そこにも「村々の小権力」が「中央の大権力」への働きかけとして作用している。「忖度」も「排除」も、その隅々に作用する「家の論理」なのだ。 太平洋戦争の敗北のあと、財閥が解体され、農地が解放され、民主化が進んだように見えるが、日本社会の根底には、平安時代の「血の論理」、鎌倉以後の「地の論理」、歴史を貫く「家の論理」が連綿と流れつづけている。(「家の論理」に関しては拙著『「家」と「やど」―建築からの文化論』朝日新聞社刊参照)