富岡八幡宮と世襲歓迎の弊害──「地盤相続社会」における村々の“小権力”
家元の世襲・企業の世襲
もともと伝統芸の世界は家元制であり、世襲が多い。これは近代化以前の日本の「家」を引き継いでいるからだ。 しかしそこにも、合理的な理由が明瞭な世襲と、あまり明瞭ではない世襲がある。 歌舞伎や能・狂言などの舞台芸術は、子供のころから厳しい稽古が必要で、寝食をともにしての以心伝心、これは世襲でなければできない意味がある。しかも芸に実力が出やすいので、社会が納得する。後継者を見つけるのが困難な伝統工芸の継承も同様である。 しかし同じ伝統芸でも、茶道、華道などは実力が表に出にくく、しかも一般人の弟子たちに免状を与えることによって家元が大きな収入を得る、そういう世界では、子のうちの誰が世襲するのか、それとも実力ある弟子が継ぐのか、後継者争いとなりやすく、山村ミステリーの種ともなっている。 企業の経営者が世襲される場合も少なくない。 江戸時代の商家は家業であった。しかし戦後日本では、財閥解体などの民主化によって、中小企業はともかく、大企業トップの世襲は少なくなっている。 それでも、日本を代表する大企業のトヨタ自動車は、半世襲が続いている。筆者はトヨタ生産方式についての本(『大野耐一・工人たちの武士道』日本経済新聞社刊)を書いた折、何人か、この企業のトップクラスにインタビューしたのだが、誰もが「豊田家の人が社長になった方が、社内がまとまる」という。 つまり幹部が世襲を歓迎しているのだ。もともと社員の家族的結束によって世界企業となり、それが日本経済を支えているのだから、企業の世襲に否定的だった筆者も、即座には批判できなかった。企業の場合、業績によってトップの良し悪しが判断されるのだから、その点において合理性がチェックされていると考えることもできる。
宗教家と政治家の世襲
しかし宗教家と政治家は、本来世襲されるべきものではない、と筆者は考える。 この二つはもともと、特別に強い志の持主がなるべきものだ。 宗教家は、自己のうちに神的な体験があり、厳しい修行と教学を収め、心身を捧げて人々の苦悩に寄り添うのでなくてはならない。現在の住職や宮司に、どれだけそういった人物がいるであろうか。 もはや人々も期待しなくなっているのだ。仏寺の檀家や神社の氏子が住職や宮司に期待するのは、仏堂や社殿を守り、葬式や祭事をそれなりにこなすなら誰でもよく、世襲で十分ということになる。 政治家はそうはいかない。国のため、民のため、公のため、法律と歴史はもちろん、社会全般に関する知識を磨き、自分の利益など考えず、粉骨砕身、日夜努力すべきである。しかし現在の何々チルドレンといわれるような政治家に、どれだけそういった人物がいるであろうか。 政治家に世襲が続くのは、その選挙地盤を引き継ぐからである。 それまでの政治家が引退あるいは他界しても、地元の後援会は残り、社会組織の常として、そこに所属する人々はその存続と発展を図ろうとする。政治家の思想信条よりも、自分たちの利になる政治力が優先され、世襲が有利ならそれで結構ということになりがちなのだ。