【林コレクション】日本で最初にスポーツの名を冠し、フェアレディの源流となったクルマ|1959年式 ダットサンスポーツ1000(S211)
後のフェアレディの源流となったS211系の生産方法とは
S211型ダットサンスポーツ1000(1959~60年)の生産手法は、210系ダットサン1000乗用車のフレームとエンジン、サスペンションを流用し、スポーツ専用のボディを載せて製作されている。型式のSはスポーツのSを表すことは想像にたやすい。既存車両のフレームを流用していること自体はDC-3型も同様だが、DC-3が戦前からの手法である木骨にスチール製ボディを板金した職人仕事であったのに対し、初期のS210系ではFRP製のボディが採用されているのが最大の特徴だ。 FRPと言えば今もアメリカンスポーツカーを代表するシボレーコルベット(1954年~)がこの時すでにFRP製ボディを確立しており、スチールボディに比べ軽量で、スポーティ性が強調されそうだが、はたしてこれだけがダットサンスポーツがFRPを採用した理由だろうか。 ワイドフィールドモータースは太田祐一個人の設立した工場であり、S210系ダットサンスポーツの頃には日産専属のアルファモーターへと改組していたが、車体メーカーと言うには規模は小さく、自動車のボディ製造が手板金からプレス成型の時代へと移り替わる時代において、大型プレス機のない小規模工場でも生産可能なFRPボディに活路を見出そうとしたのではないだろうか。 また、FRP製ボディで忘れてはならないのが、日本でもフジキャビン(1955~57年)が、S210系ダットサンスポーツに先駆けて登場していたことだ。フジキャビンの設計者である富谷龍一もまた、日産自動車で戦前からダットサンの改良にかかわった人物である。 自動車のボディ材料としては当時の先端材料であったFRP製ボディのクルマがほぼ同時期にあったことは、日本自動車史を追う意味で興味が尽きない。
当時の日産自動車社長である川又克二さんによってフェアレデーと命名された。
ダットサンスポーツは後に当時の日産自動車社長である川又克二によりフェアレデーと命名され、スチール製ボディのSPL212、SPL213へとマイナーチェンジし、北米市場を中心に約500台が生産されることとなるが、FRPボディのS211は20台程度が生産されたにすぎなかった。 ここで紹介するダットサンスポーツS211型は、20年ほど前に林克己さんがレストアした車両で、まがうことなきファイバー製ボディをまとう。これまでのシリーズと異なり、すでに手放した車両だが、レストア過程において数多くの記録写真を残しており、ダットサンスポーツ1000を知るうえで貴重な資料となることから、写真をお借りして記事にさせていただいた。 これまでのシリーズでは手つかずの未再生車ばかりを紹介してきたが、林さんは決して少なくない台数の旧車のレストアを、仲間とともに自身の手で行っている。 レストアとは自動車製造の追体験であり、設計者との車体を通した対話でもある。このようなアマチュアレストアラーとしての一面を持つことが、林さんがただ収集をするだけのコレクターと一線を画すところである。 後のフェアレディSP310型もフレームの基本構造こそ乗用車であるブルーバードと共通ではあったが、エンジンをより後方に移動するなど、スポーツカーとしての性能向上を図った改良が見られた。しかしS211型の時点では、前後重量バランスまでを考慮することなく、乗用の210型ダットサン1000のフレームにそのままスポーツのボディが載る。ここにフェアレディの進化の通過点を垣間見ることができる。 初出:ノスタルジックヒーロー vol.199 2020年6月号 (記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
Nosweb 編集部