元J助っ人に残る後悔…相手蹴り「馬鹿だったね」 V懸けた決戦の一発レッド「許せない」【インタビュー】
静岡ダービーのJチャンピオンシップで起きたまさかの一発退場
そのエスパルス時代で忘れられない瞬間がある。 「タイトルを獲ったり、楽しい思い出はあるんですけど、多分自分の中で一番辛いことが、一番印象に残ってますね。それがあの退場。何で僕、そういうふうになったんだ、みたいな」 1999年Jリーグチャンピオンシップでのことだ。2ndステージ王者の清水は、1stステージ王者のジュビロ磐田に対し、アウェーでの第1戦に1対2で敗れ、第2戦はホームで2対1と勝利。合計スコアが同点となり、もつれ込んだPK戦によって、年間優勝を逃した。その第2戦で、アレックスは前半35分に相手選手を蹴り、一発退場となったのだ。 「エスパルスはまだ、Jリーグで優勝したことなかったんですよ。それが一番近いところまで来て、自分が優勝する力を与えたいと思ったんです。もう本当にアレックスの年だったし、自信があった。 でも、優勝できなかったのは、僕のせいだったと思います。自分が難しい展開にした。人生でやり残したことがあるかって言ったら、それですね。もう一回、昔に戻ってやり直したいです」 チームメイトたちとも話した。 「多分、僕を殺したかったでしょうね(笑)。僕はファウルで止められるほうの選手だったんで『アレ(※アレックスの愛称)、馬鹿だったね』『向こうがやることを、こっちがやっちゃったね』って。『アレがいたから、あそこまで行けた』とも言ってくれたんだけど、自分がやったことは、自分が一番分かっているので、自分で自分が許せない。 若かったのもあるかもしれない。でも、それでもっと気持ちが強くなって、試合の流れを理解できる、余裕のある選手になったので、自分のキャリアにとって、必要だったのかもしれないし、成長につながった、とは思いますね」 7年間の清水でのプレーを経て、2004年には浦和レッズに移籍した。 「浦和はそれまで、タイトルに絡むチームではなかったんですよ。ちょうど僕が行った頃からチーム力がすごく上がって。(小野)伸二がいたり、(鈴木)啓太、長谷部(誠)、(田中マルクス)闘莉王、田中達也、あと外国人のネネ、(ロブソン・)ポンテ、ワシントン、その前はエメルソンとか、すごい選手たちがいっぱいいて。強くなったら、サポーターもバーっとついてきて、すごかったんですよね、あの頃。ずっと優勝したり、優勝を争っていた。そこに貢献できて、すごくいい6年間だったなと思う」 次に行ったのが名古屋グランパス。アレックスはプロ13年目と、経験も増していた。 「浦和での最後の1年は、怪我をしたのと、その時はフィンケ監督に、若い選手にチャンスを与えるっていう考えもあって、ちゃんとサッカーができない悔しさがあった。 だから、ストイコビッチ監督が呼んでくれた時には、すごくありがたかったし、もうベテランとしての期待だったと思うけど、それに応えられるように頑張って、違う意味で、自分を成長させられた時期だったと思うんですよね。 すぐに試合に絡めて、アジアチャンピオンズリーグにも出て、次の年、チームは初めて日本一になれた。あの時期の名古屋には、闘莉王、楢崎(正剛)、玉田(圭司)とか、いい選手がいっぱいいて、すごく楽しかったですね。」 アレックスは2012年まで名古屋で過ごし、その後は栃木SCとFC岐阜でそれぞれ1年間プレーし、ブラジルに帰国した。続く第2回では、その彼の日本代表における、今だから話せる思い出を綴る。 [プロフィール] 三都主アレサンドロ(さんとす・あれさんどろ)/1977年7月20日生まれ、ブラジル出身。清水エスパルス―浦和レッズ―レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)―名古屋グランパス―栃木SC―FC岐阜―マリンガ(ブラジル)―グレミオ・マリンガ(ブラジル)―PSTC(ブラジル)。鋭い突破力と正確なキックを持ち味とする攻撃的アタッカーとして活躍。2001年に日本へ帰化。日本代表メンバーとして2004年のアジアカップ優勝、02年に日韓W杯ベスト16進出に貢献した。 [著者プロフィール] 藤原清美(ふじわら・きよみ)/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。
藤原清美 / Kiyomi Fujiwara