兵庫県唯一の天皇陵、「淡路廃帝」と呼ばれた淳仁天皇とはどのような人物だったのか
淳仁天皇陵の近くには、淳仁天皇の母親である当麻(たいま)夫人の墓もある。流罪となった天皇とともに淡路島に来て、淳仁天皇と同時期に亡くなったとされている。
配流先の淡路島に散在するゆかりの地、地元の民に慕われる
全国的には知名度が高いとはいえない淳仁天皇だが、淡路島の地元住民からは慕われていた。同島には淳仁天皇ゆかりの地が数多くある。天皇としての葬儀さえも行われなかった淳仁天皇の陵墓は、明治時代になってから先に紹介した賀集の森に比定されたのだが、地元には他にも陵墓と伝わってきた場所がある。
淳仁天皇陵から北に約4キロ歩いたところに大炊神社がある。祭神は淳仁天皇で、敷地内に天皇塚と呼ばれる森がある。実はここも淳仁天皇の遺体を葬ったと伝わる場所なのである。
さらに遺体を火葬した場所と伝わるのが野辺の宮で、近くには火葬後、最初に葬ったとされる丘の松という場所もあり、こちらは宮内庁が管理する陵墓参考地になっている。
淡路島以外にもある。淳仁天皇の時代、滋賀県(近江国)には「保良宮(ほらのみや)」という宮殿があった。仲麻呂の藤原南家(藤原不比等の長男、武智麻呂の子孫)は代々近江守を務め、縁が深かったためで、同県長浜市にも淳仁天皇陵伝承地があるのだ。
兄頼朝と対立し、悲劇的な最期を遂げた源義経に好意を持つ「判官びいき」という言葉がある。悲劇的な最後を遂げた人物に対する同情は日本人の特徴なのだろう。淳仁天皇ゆかりの地の多さはそれを物語っているように思えてならない。(デジタル編集部 松崎恵三)
【淳仁天皇陵(淡路陵) データ】
◆アクセス 洲本バスセンターからバスで「御陵前」下車。徒歩約5分。