兵庫県唯一の天皇陵、「淡路廃帝」と呼ばれた淳仁天皇とはどのような人物だったのか
皇族、藤原氏の権力争いの末にまわってきた皇位
淳仁天皇は、壬申の乱で有名な天武天皇の皇子、舎人親王の子として733年に生まれた。幼くして父親が亡くなったこともあり、官位を受けることなく、20歳過ぎまでは注目されない存在だった。
しかし、運命は757年に大きく変わる。東大寺大仏を建立した聖武天皇の後、娘である孝謙天皇が即位し、皇太子には同じ天武系の道祖王がなっていたのだが、この年に廃されて、大炊王(おおいのおう)(後の淳仁天皇)が皇太子となったのだ。
当時、政治の世界では天皇の一族である皇親勢力と藤原氏の間で権力争いが繰り広げられていた。孝謙天皇の母親は光明皇后(光明子)といって藤原不比等の娘で、臣下の女性が皇后についた初めての例だった。光明子の立后(皇后になること)に反対した長屋王(皇親勢力の中心人物)は「長屋王の変」で自殺させられ、彼を排除したことで光明皇后が実現している。
大炊王の立太子では、不比等の孫である藤原仲麻呂の推挙があった。大炊王は、仲麻呂の亡くなった長男の未亡人を妻として迎えたほか、仲麻呂の私邸に住むなど二人は深く結びついていた。
孝謙天皇の即位時も、女性天皇の即位に批判的だった皇親勢力の橘諸兄らが遠ざけられ、後に諸兄の息子の橘奈良麻呂による乱が起こり、先に廃太子された道祖王もこの乱に関与したとして捕まり、獄死している。
藤原仲麻呂という存在に左右された人生
孝謙天皇が譲位して、大炊王が天皇になったのは758年のことだ。政治の実権は仲麻呂が握っていた。仲麻呂は760年に皇室外として初めて太政大臣になる。だが、この栄華も長くは続かなかった。病気がちになった孝謙上皇は、看病にあたった僧、道鏡を寵愛(ちょうあい)し始めたのだ。仲麻呂の進言により淳仁天皇がいさめると、上皇の怒りを買い、逆に上皇との対立が深まるようになる。仲麻呂は764年に乱を起こすも失敗して殺害された。淳仁天皇も廃位の上、淡路国に流される。翌年、流刑地から逃亡を図り、捕まった翌日に死去したとされるが、殺害されたと推定されている。当時都には前天皇である淳仁天皇とつながっている貴族も多く残っていて、称徳天皇(孝謙上皇が再び天皇になった名前)周辺は警戒していたようだ。おそらく殺害の経緯もあって諡号は贈られず、廃帝もしくは淡路廃帝の名前で呼ばれることになったと思われる。