人前での緊張を和らげる「安心問答」とは? 10代に伝えたい禅の言葉
陽向さんに贈る禅語:「安心問答」
「安心問答(あんじんもんどう)」 二祖云、 某甲心未安。乞師安心。 磨云、将心来。与汝安。 祖云、覓心了不可得。 磨云、為汝安心竟。 ――圜悟克勤『碧巌録』 (現代語訳) 達磨に向かって弟子の慧可が言った。 「私は心が不安でなりません。師匠、どうか私の心を落ち着かせてください」 達磨が言う、「その不安な心を取り出してみよ。そうしたらお前のために落ち着かせてあげよう」 慧可が言う、「心を探し求めましたが、結局取り出せません」 達磨が言う、「これでもう、私はお前の心を落ち着かせたよ」
解説:心とは、実体のない自由なものである
入学したばかりの一年生はもちろん、新学期でクラス替えがあると、最初のホームルームで自己紹介をすることがありますね。どんな子がいるのかなぁと、みんな興味津々です。 人前でしゃべるのが得意な子は上手にウケを狙ったり、理路整然と話したりもできるようですが、苦手な子は、こちらが気の毒に思ってしまうくらい緊張しています。 うまく話せなかったらどうしよう、変なヤツだと思われたらどうしよう、友達ができなかったらどうしよう……。その新学期特有の緊張と不安、よくわかります。 そこで紹介したいのが、かの有名な「だるまさん」こと達磨大師とその弟子・慧可とのやりとり「安心問答」です。「あんじんもんどう」と読みます。 これは禅における「安らかな心」という意味で、一般的に使われている「安心した」の「あんしん」と同じ感覚ですが、そのときその場だけの「安心」ではないところが少しちがいます。
「心の不安」に実態はない
弟子の慧可は師匠の達磨に「私の不安な心を解消してください」とお願いしました。 心の不安の解消を他人に依存するなんて、修行僧の身としてはおかしな話なのです。本来それは、自分で解決しなければならない大きなテーマです。 ですから達磨はこのお願いをその場で叱りつけることもできたはずですが、あえてそれを受け容れました。 「その不安な心を自分で取り出してみせたなら」という条件つきで。 確かに不安に感じるのは心の問題です。しかしそのもととなるものを取り出して見せろと言われても、無理な話です。心は目に見えないものであり、そもそも形などないのですから。むろん慧可も、「できません」と答えるしかありませんでした。 もとから不安な心など、実体のないものだということを理解させようというのが、達磨の意図でした。ですから、慧可の答えを聞いた達磨は、「これでもう、あなたの心を落ち着かせた」と言い切ります。 これは、ちょっと強引な論法に思えます。だからこそ、単純なうわべだけの言葉のやりとりではないことがわかりますね。 達磨は慧可に、「心の不安」がじつは確固たる実体のないものであり、それに対する恐れやこだわりさえ捨て去れば、自然に解消されるものであることを示したのです。 風船のように膨らんだ不安を心から掴み出して、パーン!と割ってしまうこと などできません。だから、最初から「ない」と考えるのです。これがこの禅問答の主題なのです。