阪神・淡路大震災の教訓は能登半島地震に生かされたか? 石川県の被災地で活動した大学病院救急医に聞く
(夏目) 具体的には、どのような状態で医療が被災地に届かなかったんでしょうか? (山本) 例えば、この時は神戸大学は意外と大丈夫だったんですが、そこに患者さんはあまり来ない状況で、逆に被災地の病院に集中してしまうとか、あるいは倒壊した建物に挟まれてしまって「クラッシュ症候群」と言いますが、筋肉が溶けてしまい、そこから腎不全になって心肺停止に陥るという患者さんがたくさんいらっしゃいました。 そういう助けられる命を外に搬送する仕組みもありませんでしたし、当時は自衛隊との連携、警察や消防との連携ということもできないという状態でした。 (夏目) この阪神・淡路大震災は大石さんも現地で取材されたんですね。 ■阪神・淡路大震災の教訓は生かされたか? (大石邦彦アンカーマン) そうですね、私は入社1年目だったんですけれども。地震発生から10日ぐらい経って現地に入って1週間ほど取材を重ねてきました。現地に行って驚いたのは、もうとにかく怪獣のようなものがやってきて街を破壊したんじゃないかと思うぐらい目茶苦茶だったんですね。 阪神高速道路が倒壊してバスが落下寸前で止まっていたり、こういう状況が至るところに広がっていました。古い木造住宅は地震にもろいというのは知っていたんですけれども、コンクリートには安全神話があったんですね。 ところが、コンクリートの建物がもろくも崩れていた。 そして、コンクリートの中にある鉄筋が、むき出しになっているのを見て、本当に驚きました。やはりコンクリートでも耐震をしなければいけないんだということを改めて痛感した、そんな取材でしたね。 (夏目) 大石さん、私達は阪神・淡路大震災から多くの教訓を学びました。その教訓というのは現在活かされているんでしょうか? (大石) そうですね、そのあたりを見ていきたいんですけれども、あれから29年が経ちました。 まず避難所から見ていきましょう。阪神・淡路大震災の避難所にも行きましたけれども、間仕切りなどはなくてプライバシーは保たれていませんでした。 今は、間仕切りなどは段ボールでできています。場所によっては、テントなども使われています。 そして物資なんですが、当時は義援物資という言い方をしていました。これが全国から集まったんですが、集まり過ぎました。中には使えないものもあったり、賞味期限切れの食料もあったりしたんです。この物資があまりにも多かったので、仕分けに多くの人手が必要だったため混乱していました。 今はどうかというと「物資は個人で送るのはやめてください」と呼びかけたりして、物資のコントロールがある程度可能になっている。このあたりがだいぶ違うなと思います。 (夏目) 山本さん、そのあたりは現地で避難所をご覧になっていかがでしたか?
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