”引揚者に食わせるコメなどない!”3 万人近い日本人死亡の背景にあったのは大国間の不信と対立の構図 #戦争の記憶
送還問題は「先送り」に
結局、米ソはこの日、「日本人の送還問題」を協議事項から外すことで合意した。 それどころか、代表者会議は事実上、何の成果もなしに幕を閉じることになった。米国によるコメの供給が不可能だったことで、ソ連はあらゆる米側の要求に応じない姿勢を見せた。 アーノルドは会議が終わった時、「全面的責任はソ連側にある」と公言した。半面、ソ連側から見れば、米国が北朝鮮の政権とソ連に打撃を与えるために、コメの提供を意図的に拒否したと疑っていた可能性は十分にある。 入手した2月6日付の代表者会議終了に際した新聞発表文の草案には、日本人送還問題を討議した事実さえ、記されていなかった。送還問題は終戦翌年の早い段階で話し合われていたにもかかわらず、米ソは合意に至らずに持ち越されざるを得なかった。
ソ連を非難するアメリカ、これに反発するソ連
米ソ間で送還について会談が再開したのは6月だった。連合国対日理事会の米国代表ジョージ・アチソンとソ連代表クズマ・デレビヤンコとの間で始まった。しかし、新たな障害が持ち上がる。米側が民間人と同時に、ソ連に抑留されている捕虜の送還を要求したためだ。米側はポツダム宣言に「日本の軍隊は完全な武装解除後、家庭に復帰し、平和で生産的な生活を営むことが許される」とあるのを根拠にして、ソ連側を責めた。 だが、ドイツとの戦争で疲弊していたソ連にとって、日本人捕虜は経済再建に向けた不可欠な労働力であり、簡単に手放すわけにはいかなかった。米側の要求にソ連は反発、会談は7月12日に再び決裂する。こうして日本人の正式な引き揚げは遅延に遅延を重ねていった。 米ソが歩み寄るのは9月下旬になってからのことだった。ソ連が連合国側の強まる圧力と国際的な批判を懸念し、捕虜を段階的に送還する方針に転換したのだった。 引き揚げ史に精通する駒澤大学文学部教授の加藤聖文が著した『海外引揚の研究──忘却された「大日本帝国」』によると、ヨシフ・スターリンを議長とする行政の最高意思決定機関・ソ連閣僚会議は10月4日に民間邦人と抑留者の送還を決定、関係各機関において送還実施に向けた準備が本格化していく。 米ソ両国は11月27日に暫定的な計画を策定した。ソ連が北朝鮮から日本人の送還、すなわち引き揚げ事業に着手したのは、12月のことだった。 (最終回) *** 第1回の〈「日本人6万人」の命を救った”アウトサイダー”を知っていますか〉をはじめ、終戦で難民と化したきわめて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」について、全9回にわたって紹介。 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。
デイリー新潮編集部
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