”引揚者に食わせるコメなどない!”3 万人近い日本人死亡の背景にあったのは大国間の不信と対立の構図 #戦争の記憶
コメの供給をめぐり米ソが対立
代表者会議の議事録によると、1946年1月16日から2月5日まで開催された会議では、ソ連が要求した南朝鮮から北朝鮮へのコメ供給について、米側が難色を示したことで対立が深まっていくのがよく分かる。 シュティコフ「日本統治下では、南のコメを日本に輸出し、北朝鮮の人民は南からコメの供給を受けてきた。彼らには直ちに、コメを受け取る権利がある。我々の資料では、朝鮮全体でコメの生産量は2600万石あり、このうち2100万石は南朝鮮、500万石が北朝鮮だ。米軍司令部には南から北にコメを供給する責任がある」 アーノルド「日本軍が撤退に伴って食料を接収していった。米国は残っていたコメを不十分な量しか獲得できておらず、他の穀物もすでになくなってきた。南は過去5年平均で、北と満州から370万石の穀物を得ていたが、それも今では得られる保証はなく、深刻な食料不足に陥っている。北に配給することは不可能だ」 1月25、26日の両日だけでも、米ソはコメの供給問題をめぐって、延々とこうしたやり取りを続けた。 米軍政庁は1945年秋、南朝鮮に資本主義を普及させるため自由市場制を導入し、コメの自由販売を解禁した。だが、米軍政庁の狙いとは裏腹に、地主らによる投機的買い占めや日本への不正輸出が横行する。その結果、市場に出回るコメは激減し、アーノルドの説明通り、南の余剰米はすっかり、姿を隠してしまっていた。
「引揚者の食料は、米ソどちらが負担するのか」
日本人の送還問題では2月1日、北朝鮮に残る日本人の送還を3月1日から開始し、5月15日に終わらせることをソ連側が提案し、米国もこれに同意した。だが、ソ連側は同時に、引き揚げる日本人の食料を米側が負担するよう要求。米側は南朝鮮のコメ不足を理由に挙げ、これを拒否する。 ソ連側はまた、日本から引き揚げる朝鮮人が北朝鮮に帰還後、最終目的地に着くまでの食料まで保障するよう米側に求めていた。これに対して、アーノルドは次のように反駁して、ソ連側の要求を退けた。 「日本から北の居住地までの食料を、日本あるいは連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)が用意せよ、という要求は公平ではない。ソ連軍司令部は、北から日本の居住地までの全行程について、日本人帰還者の食料を用意する考えなどないではないか。SCAPには北朝鮮の目的港までの食料を依頼するだけで十分だ」 この直後、シュティコフは突然、「この問題を外すことを提案する」と言い放った。アーノルドは一瞬、意味が理解できない様子で、「第6項(日本人の送還問題)全部という意味か」と問い返している。