根強い<清少納言と紫式部の不仲説>。実際に顔を合わせたことのなかった二人は真反対の性格で…政治背景も説の後押しに
NHK大河ドラマシリーズや映画など、様々な形で現代まで語り継がれてきた日本の歴史。しかし、日本博識研究会によると「中学や高校で学んだ日本の歴史の常識は大きく変わっている」そうで――。そこで今回は、日本博識研究会が日本史の「新常識」をまとめた著書『あなたの知らない日本史の大常識』から「清少納言と紫式部の不仲説」についてご紹介します。 【書影】古代から近現代まで…日本史の見方が180度変わる一冊。日本博識研究会『あなたの知らない日本史の大常識』 * * * * * * * ◆清少納言と紫式部は犬猿の仲だった? 女流文学が隆盛を極めた平安時代。 その中心が『枕草子』の清少納言(せいしょうなごん)と『源氏物語』の紫式部(むらさきしきぶ)である。 このふたりの才女、俗説として“仲が悪かった”とされるのは、その対照的な性格ゆえだろう。
◆社交界の花形・清少納言に対して…… たとえば「人に一番気に入られたい」とは、清少納言の残した言葉。 宮廷で生活し、まさに社交界の花形的存在であった彼女は、自分の才能をより多くの人に認めてもらうことを望んだのである。 そんな清少納言に対して、紫式部は「宮中のようなところで、どうして見識をひけらかしたりできるのか」といって批判したのだ。 ただし、ふたりが活躍した時期には若干のズレがあり、実際に顔を合わせることはなかった。
◆不仲説を後押しする政治背景 実際に不仲だったかはさておいて、お互いに相容(あいい)れない存在であったことは間違いなさそう。 彼女たちの不仲説を後押しする根拠に、とある政治的背景が存在している。 ときの一条(いちじょう)天皇は「一帝二后」というふたりの妻を置くシステムの祖であり、皇后に定子(ていし)、中宮(ちゅうぐう)には彰子(しょうし)を立てていた。 そして清少納言は定子に、紫式部は彰子に仕えていたのである。
◆ライバルがいたからこそ? 仕える后(きさき)同士が対立しているのだから、ふたりが相反する関係であったことは想像しやすい。 とはいえ、ライバルがいたからこそ互いに高め合うことができたのもまごうことなき真実。 そんなふたりの対立関係が、女流文学の隆盛につながった……と言えるのかもしれない。 ※本稿は、『あなたの知らない日本史の大常識』(宝島SUGOI文庫)の一部を再編集したものです。
日本博識研究会
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