「ディスクレーマー 夏の沈黙」真実の迷宮へと引き摺り込む、巧妙に仕掛けられた“語りと形式” ※注!ネタバレ含みます
「語りと形式に気をつけて」
※結末に関する記述がありますので、未見の方はご注意ください。 「語りと形式に気をつけて。その力は真実に近づかせる一方で、人を操る強力な武器にもなります」 キャサリンがテレビ・ジャーナリズム賞を受賞した会場で、司会者はこんなアナウンスをする。そして『ディスクレーマー 夏の沈黙』というドラマの本質は、ほぼこの言葉が全てを言い尽くしている。卓越したストーリーテラーのアルフォンソ・キュアロンは“語りと形式”を駆使して、我々の認知を巧妙に操り、真実の迷宮へと引き摺り込む。 このドラマが最も特異な点は、ナレーターが一人ではなく、二人いることだろう。キャサリンのパートでは、アノニマスな存在としての女性の声(インディラ・ヴァルマ)がナレーションを務めている。一人称ではなく、三人称としての視点。キャサリンを「彼女」と呼び、客観的・俯瞰的視座で心のうちを語る。一方スティーヴンのパートでは、彼自身の声がナレーションとなって物語を綴っていく(なおキャサリンのパートはエマニュエル・ルベツキ、スティーヴンのパートはブリュノ・デルボネルと、撮影監督も二人に分かれている)。 三人称視点(=キャサリン)と、一人称視点(=スティーヴン)のナレーション。アルフォンソ・キュアロンが、あまりにも奇妙な“語りと形式”を採用した理由は、おそらく、巧妙に隠蔽していた<真実>が露わになることを防ぐためだ。我々はすっかり、「キャサリンがジョナサンを誘惑して、肉体関係を結んだ」と思い込まされていた。だが<真実>はそうではない。「ジョナサンがキャサリンの部屋に押し入り、力づくで暴行」していたのだ。 もしキャサリンのナレーションが一人称だったなら、その<真実>を心のうちで語っていただろう。第1話から、封印していた過去を明かしていたことだろう。匿名的な誰かによるナレーションというトリックによって、我々は「The Perfect Stranger」に書かれた物語を真実だと錯覚し、知らず知らずのうちに操られていたのである。 ジョナサンのパートが<真実>ではないことは、実は最初から提示されていた。キャサリンやスティーヴンとは異なり、ジョナサンのパートだけは「始まりはアイリスイン、終わりはアイリスアウト」という、非常に古典的なトランジションで繋がれている。オールドファッションな技法によって、このパートが虚構の世界であることを、ナンシーが創り上げた想像の世界であることを、アルフォンソ・キュアロンは周到に示している。 なお最終エピソードの第7話では、アイリスイン・アイリスアウトは使われていない。キャサリン自らが、20年前の出来事を告白する形式がとられているからだ。現代から過去にダイレクト・カットインするトランジションによって、それが<真実>であることを視覚化している。