佐渡鉱山と雑輩たち【コラム】
佐渡鉱山(佐渡島の金山)が世界遺産に登録されたという事実を伝える先月27日の報道資料をみて、はらわたがちぎれるような痛みを感じた。佐渡鉱山は韓国の同意がなければ「登録」が不可能な状況だったため、この交渉は韓国が“絶対的に”有利な状況のもとで進めることができた。しかも韓国には、2015年7月の軍艦島(端島)などの「明治日本の産業革命遺産」の過程で勝ち取った良い“先例”もあった。日本は9年前、軍艦島などの登録のために、「多くの朝鮮半島出身者が本人の意思に反して過酷な条件のもとで強制労働させられた」事実を認めざるをえなかった。このような点をうまく活用すれば、少なくとも当時と同程度の成果を勝ち取ることができると感じていたのだ。 結果は誰もが知っているように、予想から大きく外れた「外交惨敗」だった。日本は佐渡鉱山でなされた朝鮮人強制労働について、いかなる「強制性」も認めることなく、この施設を世界遺産に登録することに成功した。 振り返ってみると、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の就任からの2年間に、似たようなことが繰り返されてきた。両国間の主な懸案について、日本は動かないにもかかわらず韓国だけが後退したのは一度や二度ではない。国家のアイデンティティに直結する歴史問題、何度も慎重に考えて決めなければならない安全保障協力問題、「LINE問題」のような経済問題など、分野を問わない。 尹大統領はいったいなぜ、このようなことをするのだろうか。1年半ほど前、この政権の外交・安全保障ラインのまさに核心的な当局者から妙な話を聞いたことを思いだした。尹大統領はそのころ、韓日間で最重要の懸案だった強制動員被害者への賠償問題について、第三者弁済という“一方的な譲歩案”を出した後、訪日(2023年3月16~17日)を予定していた。韓国が「度量の大きな譲歩」をしただけに、日本も何らかの「相応の措置」を出すだろうという期待が高まっていた状況だった。日本は何か準備をしているのかと聞いたところ、この当局者は意外なことに“冷笑的”な表情を浮かべて答えた。 「韓国が先に何かを要求してこそ日本は考えるんでしょうが、大統領にはまったくそうするつもりがないようです。外交部も既存の韓日関係の枠組みにとらわれていると考えておられるようです。韓国が要求していないのだから、向こうから何かを自発的に出すわけがありません」 1876年の朝日修好条規(江華島条約)を通じて、朝鮮と日本の近代外交関係が始まった後、朝鮮が生き残るためには日本との協力が必要不可欠だと信じる人たちが、一定数存在していた。これらの人たちは、「売国奴」とは違う中立的な意味での「親日派」と呼ぶことができるだろう。親日派を引きつけた魅力は、朝鮮に先行する日本の「先進性」だった。東亜日報の1930年1月4日付2面左側上段の記事には、そのころには亡国の「元老政治家」に転落してしまっていた朴泳孝(パク・ヨンヒョ、1861~1939)のインタビューが掲載されている。「壬午年(1882年)の事件(壬午軍乱)の謝罪使節として日本を訪れてみると、日本の文物は朝鮮と比較して雲泥の差があることを発見し、わが国が強くなろうとするのであれば、まずは日本を見習わなければならないという決心を堅く持つことになりました」 名門の一橋大学で1年間勉強することになった父親や家族とともに、1967年に上野駅に到着した尹錫悦少年の目に映った日本の姿も、それと似ていた。尹大統領は訪日前の読売新聞の2023年3月15日付39面のインタビューで「今も一橋大のある(東京都)国立市が目に浮かぶ。(中略)(日本は)先進国らしくきれいだということだ。日本の方々は正直で、(何事にも)正確だということを多く感じた」と述べた。 日本の力を借りて朝鮮を変えようとした初期の「親日派」のうち、1910年の強制併合後も生き残り、「売国奴」呼ばわりを免れたのは、兪吉濬(ユ・キルジュン)、金允植(キム・ユンシク)、金嘉鎮(キム・ガジン)の3名しかいない。この3名は、朝鮮と日本は協力しなければならないと考えながらも、両国の「戦略的利害」は同じではないという事実を鋭く認識していた。両国の利益がすべて一致するはずはないのだから、協力しながらも絶えず対立していたのだ。そのため、兪吉濬は伊藤博文の前で大声で「朝鮮独立万歳」と叫び、金允植は併合の最後の瞬間、ただ1人「不可」と叫び、金嘉鎮は朝鮮の高官のなかで唯一、大韓民国臨時政府に参加した。日清戦争の開戦時に在朝鮮日本全権公使だった大鳥圭介の目に映ったそれ以外の親日派は「機会に乗じて私利をむさぼろうとする雑輩」にすぎなかった。歴史は繰り返すものであり、だからこそ複雑で恐ろしいものだ。尹大統領はどうか自重してほしい。 キル・ユンヒョン|論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )