あの日から消えた両親、再会したのは夢の中 小1だった「震災遺児」力強く歩んだ13年 #知り続ける
福島県浪江町出身の鍋島悠輔さん(20)は小学1年生の時、東日本大震災で母親と祖父母を津波で失った。父親は行方不明のままだ。遺児となり、前向きさを失わずにいられたのは、犠牲になった家族が注いでくれた愛情のおかげだったと思う。現在は東京都の専門学校でギターやベースの楽器製作を学ぶ。「今を精いっぱいに生きてる。天国で自分を応援してくれているかな」と思いをはせる。
【漁業と焼き物の里】
浪江町は福島県の沿岸部に位置し、大堀相馬焼や太麺が特徴のなみえ焼そばが特産として知られる。大津波で損壊した町内の請戸(うけど)漁港は復旧し、ヒラメやシラウオが盛んに水揚げされている。 震災前は約2万人が暮らしていたが、東京電力福島第1原発事故に伴い全域に避難指示が発令。放射性物質を取り去る除染が進み、一部を除いて居住できるようになった。現在、生活しているのは約2000人だ。 自宅は漁港から数百 メートルの場所にあった。父彰教さん(46)、母弥生さん(43)と5歳上の姉の4人で同居し、祖父の鈴木澄夫さん(72)と祖母の照美さん(67)宅も付近だった。
【父親のぬくもり】
父は請戸地区にある苕野(くさの)神社の禰宜(ねぎ)、祖父は宮司を務めていた。神社では毎年2月に豊漁豊作と海上の安全を祈願する伝統行事「安波(あんば)祭」が繰り広げられ、地域住民の心のよりどころだった。神社の仕事をする父親の手伝いをすることもあった。神聖な雰囲気に包まれ、真剣な表情は幼心に誇らしく感じていた。 「ゲームをしよう」。休日の夜は父を誘ってテレビゲームを楽しむのが恒例。スポーツのゲームに、夢中になって興じたのを覚えている。肩車や膝の上に乗せてくれ、父のぬくもりも忘れられない。
【母親の手料理】
母は看護師の仕事に就いていた。忙しさに追われながらも、食卓には腕によりを掛けた料理が並んだ。手作りのパンやお菓子が香ばしくて好きだった。とぼけた会話で笑わせるユニークな一面も。時にはゲームをし過ぎて、しかられることもあったが、言動には常に愛情があふれていた。 両親は何事にも挑戦させてくれた。水泳やサッカー、習字…。常に背中を押す存在だった。そんな親に育てられたからこそ、前向きな性格になったのだろうと感謝する。 祖父母もこよなく愛している。毎週1度は、遊びに行った。祖父のハーモニカを吹いて遊んだ。祖母はいつも牛乳を用意して迎えてくれた。記憶に残るのは楽しかった日々ばかり。