あの日から消えた両親、再会したのは夢の中 小1だった「震災遺児」力強く歩んだ13年 #知り続ける
【古里のみ込む津波】
そんな幸せな時間は2011年3月11日に突然、奪われた。 通学していた請戸小近くの学童保育で父の迎えを遊びながら待っていた時、強烈な揺れに襲われた。机の下へとっさに身を隠す。建物は音を立ててきしみ、背後の本棚が倒れた。長い間、揺れていたような気がした。その場に居合わせた大人も子どもも、 恐怖で表情が青ざめていた。 「津波が来る」。鋭い声が室内に響いた。学童保育の職員と車で近くの山に避難した。とにかく無我夢中だった。当時の詳しい記憶はあまりない。ただ、車の後部座席から見えた茶色い波が壁のようになり、陸に向かう光景は鮮明に脳裏に刻み込まれている。慣れ親しんだ地域に押し寄せた津波に恐怖したことも。
【募る不安】
その日のうちに高台に設けられた避難所に身を寄せた。家族と連絡は取れなかった。被害状況も全く分からず、自分と同じようにどこかに避難していると信じていた。余震が続いていた。配られた毛布や段ボールの手触りを覚えている。身を包んでも、気分は落ち着かなかった。 そのころ、原発は暴走していた。 12日には20キロ圏内に避難指示が出されるなど、家族に会えないまま県内各地を転々とした。「当時の状況はあまり覚えていないけど心細かった」。どの避難所にどのくらい滞在したのか、記憶はあいまいなほど目まぐるしい日々を孤独の中で過ごした。 姉が小学校の教頭と一緒にいると分かって会いに行った。とにかく安心したことを強く覚えている。
【のみ込めない状況】
しかし両親や祖父母の行方は、依然として不明だった。原発事故の影響で十分な捜索ができていなかったと知ったのは、成長してからのことだ。 幼かった悠輔さんは状況をのみ込めなかった。「どうして迎えに来ないんだろう」。両親や祖父母が、いつか姿を見せると考えていた。 今思えば、最悪の結末を考えないようにしていたのかもしれない。
【新たな生活】
3月下旬、神奈川県平塚市の父方の祖父母に姉とともに引き取られた。4月から市内の小学校への転入が決まった。 「浪江の家族はどうしているんだろう」。姉と1度話したが、答えは出なかった。「どこかにいるんだろう」。自身に言い聞かせた。新たな学校では幸いにも友人に恵まれ、すぐになじむことができた。