どんな立地でも客を呼ぶ!旅の目的地になる“感動体験ホテル”とは!?
「1泊12万円」ホテルに客を呼ぶ~スタッフ集団退社からの復活
温故知新の本社は東京・新宿。一室だけのシェアオフィスだ。従業員は420人いるが、ほとんどは各地のホテルで働いているのでここで十分だと言う。 現在、松山の元には運営の依頼が年間100件近く来ている。集客が難しそうなホテルの駆け込み寺にもなっているのだ。 「見たことがないようなホテルが多いです。業界の人間でも知らないものが来る。マーケットがない?マーケットがないのは得意です。マーケットは作る派」(松山) 1973年、アメリカ・デトロイトで生まれた松山。外資系コンサルティング会社を経て、星野リゾートに入社した。任されたのは旅館の再生事業。そこで宿泊業の面白さにのめり込み、一生の仕事にしようと決意した。 「レストラン業も一部だし、不動産業も一部。やることや知ることが無限にあって難しいんです。難しいから面白い」(松山) 星野リゾートを辞め、2011年2月、37歳で温故知新を創業する。だが、そのわずか1カ月後、東日本大震災が発生。日本中が観光どころではなくなる非常事態で、松山が用意していたプロジェクトも全てストップした。 松山は旅館へのコンサルティング業務で急場をしのぐが、その一方で「自分の理想に近い宿をつくりたいと思っていました」と言う。 転機は4年後。松山の元に初めてホテルの運営依頼が舞い込む。それがあの安藤忠雄氏が手がけた美術館の再生案件だった。 「他のホテルにはない圧倒的なぜいたくさがあって、普通ではないから、やりようかもしれないと」(松山)
広々としたぜいたくな空間に付けた値段は1人1泊12万5000円。しかし、山の中にある高級ホテルに客は来てくれず、毎月300万円の赤字を出すことになった。 焦った松山は現場に細かく口を出し、ホテルの修繕まで求めた。当時を知る前出の総支配人・下窪は「建物のスタイリッシュな印象で入社する人も多かったので、『そこまでやるの?』ということが負担になっていた」と言う。 そんな中、当時支配人だった社員や厨房スタッフが集団退社。ホテルを開けることすらままならなくなり、破産寸前まで追い詰められた。 それでも松山は諦めない。かつてコンサルティングをした旅館などに出資を募り、3200万円を集め、再建に乗り出す。経営者としてのやり方も変えた。現場に口を出すのをやめたのだ。 「『やれ』と言われたら嫌になるけど、自分で思いついたらやるじゃないですか。僕が思いつくことではなくて、思いついてもらうことのほうが大事」(松山) そのために社員として守るべき信条を48項目書き連ねて社員に伝えるクレドを作った。 現場を任されるようになると、スタッフに変化が現れる。料理長の月原光崇は、客に季節を感じてもらおうと、自分たちで葉をとってきて飾り作ることを始めた。 「何でもチャレンジさせてもらえるので、腕が鳴ります」(月原) 自分で工夫したことだから、客が喜んでくれれば嬉しい。現場発のアイデアはどんどん増えていった。こうしたやり方で松山は、現場をやる気にさせ評判をあげていく。そして2年後には、黒字化に成功した。