沖縄でたびたび浮上する「独立」論 背景と歴史は /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語
「基地」の固定化と差別感情
復帰前から沖縄の米軍基地は固定化の様相で、復帰後も状況は変わりません。「本土」から移ってきたケースもあり、よくいわれる国土の0.6%に過ぎない沖縄県に在日米軍基地の74%(面積比)が集中するという状況が続きました。復帰前の「本土」は空前の高度経済成長を遂げ、それが復帰運動を盛り上げる要因になっていましたが、復帰の翌年にその終わりを告げる第一次石油危機を迎え、沖縄は結局「果実」を得られませんでした。 基地に対するスタンスは沖縄県民でもさまざまです。全部出ていってもらいたいという全面撤退派から基地負担軽減を「本土」に迫る考え方、一定の共存はやむを得ないとする現実派などです。 基地の是非とは別に1960年締結の日米地位協定の改定を要望する声も多くあります。駐留する米兵などにアメリカの法律を適用したり、公務中に罪に問われたら米軍に優先的な裁判権があるなど米兵などを保護し、言い換えると県民の権利を侵害していると訴えます。こうした願いを少しでもかなえてくれると復帰時に期待した人はなかなか進展しない現状に落胆し、一部が「独立」論者へと転換しました。
1995年の女児暴行事件と普天間移設問題
1995年の女子小学生暴行事件は米兵によって起こされ、この時ばかりは穏健な県民まで激怒しました。アメリカもさすがに見過ごせず、市街地にあって危険な基地の象徴的存在である海兵隊普天間飛行場を全面返還すると、翌年、日米間で合意しました。ただし代わりの飛行場を県内に用意するのを条件とし、1999年に名護市辺野古を移設先とする閣議決定をしました。 また地位協定そのものは変わらないものの凶悪事件は起訴(裁判にかける)前に「好意的考慮を払う」という文言で身柄を引き渡す余地を生みました。04年からは条件付きながら全犯罪へと範囲が広げられました。不幸な事件がきっかけとはいえ少しだけ前に進んだのです。 ちょうどこの頃に高まり始めた道州制の議論と「独立」論の一部が融合するアイデアも浮上しました。先に紹介した「国内の特別区(自治州)など」が相当します。小泉純一郎政権下に出された「道州制のあり方に関する答申」は「区域例」を3つ示し、その1つの「13道州」だと沖縄が単独の道州となっています。