忘れぬ懇願「僕らを見捨てないで」 中傷にも耐え38年…“騙されて”始まった監督人生
「どこにも行かないですよね」監督続投を決意も…諦めた教師の夢
伝えるタイミングを見計らっていたある日、選手たちが練習後に藤川さんの前に並んだ。どこかから、チームを離れるかもしれないという噂を聞いていた。涙を浮かべながら訴えかける。 「監督、僕らを見捨てないですよね。どこにも行かないですよね」 藤川さんは笑顔で返した。「見捨てるわけないだろ」。選手たちの顔を見たら、辞めると言い出せなくなったという。志望していた大学は名古屋市外にあったため、東山クラブのグラウンドから通える大学に進路を変更した。それは、教師の夢を諦める決断でもあった。 「当時は毎日練習するのが当たり前だと思っていたので、近くの大学に行かないとチームの活動ができませんでした。監督としての役割を最優先した生活を送っていました」 思い描いていた華やかなキャンパスライフとは程遠く、大学とグラウンドを往復する日々。そして、就職も周囲とは全く違う道を選んだ。 「バブルの時代だったので、学生が企業を選べるほど好待遇で就職できる環境でした。でも、すぐに就職したら東山クラブの活動に支障をきたすと考えて、私はフリーターになりました。周りはあきれていましたね」
チーム最優先…“売り手市場”時代にフリーター→就職先潰れて途方に暮れる
藤川監督は今まで通り選手が練習できるように、時間の融通が利くボウリング場のアルバイトに就いた。1年ほどフリーターを続け、その後はチームで取り引きのあったスポーツ用品店に就職。労働時間が限られるため決して給料は良くなかったが、チームの活動を優先することに理解を示してくれたという。 平日は夕方まで働き、夕方以降と土日はチームで活動。気づけば、チーム立ち上げから8年ほどが経っていた。だが、バブルが崩壊して状況が変わった。監督を辞めて、仕事に専念してほしいと打診されたのだ。藤川さんも“潮時”と考えていた。 「すごく悩みましたが、給料が少なくて生活が厳しかったので、今いる選手たちを送り出したらチームを解散しようと決めました」 藤川さんは新規の選手募集をストップした。ところが、運命に引き戻されるように事態が一変する。勤務していたスポーツ用品店が潰れてしまったのだ。職場を失い、途方に暮れた。「働かないわけにはいかないし、選手たちの卒団まで野球も辞められない。どうすればいいんだろう」。悩んだ末に出した答えは“独立”だった。 「もう自営業をやろうと思いました。バブルが弾けたタイミングで事業を始めるのはリスクがあるとわかっていましたが、親戚からお金を借りて、経験を生かせるスポーツ用品店を新たに始めました。自営業をやりながらチームを続けていたら、ふと思ったんです。時間の自由が利くし、チームを解散しなくてよいのではないかと」