《ブラジル》寄稿=日本にとっての日系人の重要性=改めて問う、その多様性と価値=梅田邦夫=元ブラジル大使=海外日系人協会理事
2 戦中戦後の日本移民迫害に関するブラジル政府による初の正式謝罪
二つ目の大きな出来事は、24年7月の「戦中戦後の日本移民迫害に関するブラジル政府による初の正式謝罪」である。これは、日系社会からの長年にわたる要請(補償なし謝罪)に応えたものであり、日本移民史だけでなく、ブラジル近代史においても、画期的であった。 朝日新聞の関連記事の抜粋は次の通り。 「南米ブラジルで第2次世界大戦中と戦後に日系移民が迫害された歴史を巡り、過去の人権侵害などを審議するブラジル政府の恩赦委員会が7月25日、首都ブラジリアであった。委員会は「日系移民を迫害したブラジルの過ちを認め、二度とこのようなことが起こらないよう、後世に語り継ぎたい」として、日系社会に謝罪をした。 ブラジルは大戦中、連合国側につき、日本など枢軸国出身の移民を迫害した。サンパウロ州南部の港町サントスでは43年7月、6500人超の日系移民に対して「スパイ行為」の容疑をかけ、24時間以内に退去するよう命令。移民らは着の身着のままで逃げ、住居や家財道具などの資産を接収される人も多かった。 戦後の46年には、日本が太平洋戦争で勝ったと思い込んだグループと敗戦を認めたグループが抗争を繰り広げ、日本人20人超が死亡した。この過程で、ブラジルの政治警察は無実の罪で150人超をサンパウロ州東部のアンシエッタ島にある監獄に収監。監獄内では拷問が加えられ、それが元で病気になり死亡した人もいた。 当事者らは自身の経験を語ってこなかったため、迫害の歴史は日系人の間でもほとんど知られていなかった。だが2012年、映画監督の奥原マリオさん(49歳)がサンパウロ州の真相究明委員会に、過去の迫害を審査するよう請願。委員会は翌年、日系人への迫害を認めて謝罪した。奥原さんはその後、同様の請願を政府の諮問機関である恩赦委員会に行った。 恩赦委員会は学者などで構成され、審議のほとんどは、1985年まで21年間続いた軍事政権時の被害を救済するケースを扱う。保守のボルソナーロ前政権時は委員会が停滞していたが、2023年に左派のルラ政権に交代してから審査が活発化し、戦後の混乱期にあった迫害についても審査が早く進んだ。 アルメイダ委員長(ブラジリア大学教授)は7月25日の委員会で、「人権や多様性を尊重するという、本来の国の姿を守ることが大事だ」と指摘。「ブラジルを代表して、あなた方(日系社会)の祖先が受けた迫害、あらゆる蛮行、拷問を謝罪します」と述べた。 【事実関係】 ▼1939年9月 第2次世界大戦が始まる ▼41年12月 太平洋戦争が始まる ▼42年1月 ブラジルが日本と国交断絶 ▼3月 日本など枢軸国側の移民の資産を凍結する法律制定 ▼43年7月 サンパウロ州南部サントスで6500人の日系移民を強制退去 ▼46年4月 日系社会で、太平洋戦争に勝ったと思い込んだグループと敗戦を認めたグループによる「勝ち負け抗争」で殺人事件が起き、政治警察が1200人拘束。日の丸や天皇の写真を踏むのを拒んだ人はサンパウロ州東部アンシエッタ島の監獄へ。計172人が収監されたが、150人超は無実の罪。監獄内では拷問も ▼2013年10月 サンパウロ州の真相究明委員会が迫害を認めて謝罪 ▼2024年7月 政府の恩赦委員会が迫害を認めて謝罪
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